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犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるヒントについて考えています

拡散の先にあるもの。






何らかのコンテンツをなるべく多くの人々へと拡散する、

という行為は、僕の普段の仕事そのものであるのだが、

最近は、そういうことを考えるのに疲れるようになってきた。



一体どういうことなんだろう、

これが年を取るというものなのかな、とも思うけど

決してそれだけじゃないような気もする。



単純に、僕自身の関心が、「とにかく広く、遠くへと拡散する」という行為から

別の方角へと少しずつ向きを変えつつあるようにも思う。



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で、それぞれが他人のエントリをきっかけに

自分の思考を深めていっている様子を見ていると、余計にその思いが強くなる。



もちろんホッテントリに入っているような

多くの人々の関心を集めるエントリを読むのも楽しいが、

何の縁だかよくわからないが、自由に感想を書いてもらってもいいよと

無防備にもさらけだされたエントリとの妙な出会いには、

それとはちょっと違う、自分自身の態度変容を感じる。

(この部分はid:kinakonakoさんへのエア感想)





そもそも、誰だかよくわからない人のエントリについての

感想から始まる記事は、拡散の力が非常に弱い。



それを初めて読んだ人は、なんだか内輪の話でつまんなさそうだな、と思う可能性は高いし、

もし根気よく読み続ける人がいたとしても、

書き手の中の心の変化や思考の深まりには気づきにくいだろう。



それでも強く拡散するのは、感想の対象となっているエントリが

ホッテントリなり、すでに多くの関心を集めているエントリの場合や、

よほど優れた書き手によるものである(かつ幸運に恵まれている)場合に限られると思う。



だから、より多くの人に自分のエントリを読んでもらいたい場合は、

活性化しているコンテンツに強く関与するなり、わざと炎上するなり、

他の手段を講じたほうがいいだろう。





気づくのが非常に遅くて、恥ずかしいのであるが、

果てなき拡散の先に何があるか、僕はなんとなくわかってきたように思う。


それを僕の先輩は「アガり」と呼んでいた。


自分の名前が売れたクリエイターのことを、そう言うのだそうだ。


「アガって」しまったクリエイターは、

周りから一定のイメージを獲得してしまっているので、

自分のスタイルを堅持するしか方法がない。

もちろん多くの人から尊敬されたり期待されたりするけど、

まったく新しいアイデアを試してみたり、

全然違う手法に挑戦してみたりすることを恐れるようになるんだそうだ。

(むろん、例外もいる)


それを不幸と思うのか、幸せと思うのかは、

その人の自由だけどね、とも先輩は言っていた。


僕はこれを先輩の負け惜しみだと思っていたのだが、

どうやらそれだけでもないようだ。


自分のことを相手に受け入れられることが当たり前になってくると、

そうでない状況に耐えられなくなるのが人情である。


これまでは骨を折るのも恐れずに大きなジャンプをしていたのに、

少しずつその距離が短くなってきて、小さく刻むようになっていくのが人情である。


そして、そういう心の変化が起こるような未熟な状態の人間は、

「アガる」のに向いていないのである。





さて、僕は色んな企業やら商品やら人物やらを

「アガり」にしようと苦心してきたが、

僕自身が「アガる」意気地はないのである。


ウジウジと、ああでもない、こうでもない、と悶々と悩み続けたいのである。


それはあまりにも虫の良すぎる話だ。




僕はそんな自分の傲慢さに対して、またウジウジと悩み続けている。