接点からしか、はじまらない。







なんだかよくわからない縁で読みはじめたズイショさんのブログ。

この方の、あるエントリの中で

実名と匿名とネット議論の話について覚書 - ←ズイショ→

「実名だろうとHNだろうとIDだろうと
 一定期間以上ひとつのキャラクターとしてなんか言ってて
 質量とか厚みが出てきたらそんなもんパーソナリティになってくるもんで、
 使ってるこっちとしては実名と大して実感変わらない」


という話があって、そのとおりだなあと思った。



インターネットでは

「これは仮の自分だから、何を言っても良い」という設定にしていても、

結局、どこかで誰かのブログを読んだり、はてなスターで生存を確認しあったりしていれば

人と人の接点が生まれ、深まっていく。



それが本来の自分であろうが、偽りの人格であろうが

すでに「誰かと接点を持った」という事実がある時点で、

僕は「いぬじん」として存在する(と認識される)ことになるのである。





まあ、インターネットの便利なところは

その接点が面倒になったらブログを閉鎖してネット自殺したり、

ブロックしたりすればいいところなのかもしれない。


そういう「逃げ道」が用意されていることを僕は否定しないし、

色んな可能性について試すことができる自由を持てるのは素晴らしいことだ。


しかし、忘れてはいけないなあと思う。


インターネットだろうが、リアルな社会であろうが、

僕たちは「他の誰かと接点を持つ」ことではじめてその存在を認められ、

その先に広がっていく世界をのぞくことができるようになる。



だからこそ、「最初の接点」は非常に大切なのだ。



ひょっとしたら初めて接点を持った彼や彼女とは、

すぐに離れてしまってもう二度と会わなくなるかもしれない。

しかし、その人と接触したことで、自分は新たな可能性を得ることができる。



もうちょっといえば、誰とだって、永遠につながり続けることはできない。

サヨナラだけが人生なのだ。

さまざまな人と接点を持ち、そのうちサヨナラをする。

その繰り返しが、生きることなのである。





僕はつい、「エライ人」や「つながりをたくさん持っている人」と接点を持とうとするけど

重要なのは、そういう接点ではない。


今、ここにいる僕が手を伸ばせば、同じようにこちらに手を伸ばしてくれる、

そういう距離(もちろんそれは物理的なものだけじゃない)にある人との接点こそが

僕を僕として保ってくれるし、生かしてくれる。


世の中にはこんなにたくさんの人間がいるのだし、ソーシャルなんとかが発達したのだから

もっと平和な世界が来てもおかしくないのに、逆にくだらない争いばかりが増えているのは

手を伸ばせばすぐに届くあたりにいる人との接点を、意識的に無視している人が多いからじゃないだろうか。




まあ僕だって「自分は他とは違う、すごい人間だ」なんて思う瞬間がないことはない。

しかし、そういう発想をしていると、すぐそばにある人間関係を否定して孤立してしまったり、

実はその先にあったはずの、せっかくの縁を逃がしてしまったりする。



自分と誰かとの接点を大切にすること、袖触れ合う縁をありがたいと思うこと。

そういう態度がやっぱり必要なんだろう。



隣人を愛しなさい、というのは別に宗教的な押し付けではなく、

僕らが僕らとして生きていくための、重要なテクニックの1つなのである。