僕らはみんな、流されている。






久しぶりに週末の最終電車に乗った。

酔客だらけで、ものすごく酒くさい。

おまけに狭い車両の中で部下みたいな女性を口説き続けてる人がいたり

音楽性の違いについて口論しているバンドマンたちがいたりと

それぞれの人間模様があって、それをずっと聞いている僕もいて、

普段と変わらない帰途のはずなのに、

乗ったことのない電車で見知らぬ街へと向かっているような気分だった。



僕らは実際に、漂流しているのだと思う。


毎日、同じ職場に行って、同じ家に帰って、同じベッドで眠っているつもりでも

それは多くの人が、そうであるという仮定について合意した上で成立しているだけで、

職場で働くことでお金をもらえるというのは単なるルール設定でしかなく、

家族という単位だって人間が勝手に決めて受け入れているだけだし、

はたして自分が寝ているベッドだって、本当に自分の所有物なのか、怪しいものである。


もし災害だったり戦争だったりが起こって、いわゆる非常時になれば

その状況に合わせて、瞬時の判断が必要であり、

暫定的なルールを作ったり、従ったり、また変えたりと

常に変化し続けなければ仕方がない。


そして、今この瞬間にだって、事態がそこまで極端なことになっていないだけで

世界は常に変わり続けていて、そんな中を僕らはわずかにゆられながら、漂い続けているのだ。



僕は、だからもっと変化に対する意識を高く持てとか、

神経を研ぎ澄ませとか、そんな話をするつもりはない。


ただ、僕らはゆるやかに漂流し続けていることを知っていたほうが

色んなことの大切さやありがたさに気づけると思う。


無事に帰宅して、家族の寝顔が見れることは、

偶然に偶然が重なった結果なのかもしれないし、

こうやって、はてなブログを書いて夜更かしできるのも

本当に幸運なことなのかもしれない。



そういった事実に時々感謝することが

僕たち地球漂流民にとってのたった1つの儀礼行為だと思う。