まだインターネットも携帯電話も普及していなかった頃の話。
小学生だった僕は、ヘリウム入りの風船に、願い事を書いた紙をくくりつけて運動場からいっせいに飛ばすという
今なら間違いなく近隣の住民から大量に苦情が来るような行事に参加させられた。
全員、強制参加のイベントだったと思う。
何を書いたのか、まったく憶えていない。
どんな色の風船を飛ばしたのかもわからない。
ただ憶えているのは、なぜか僕に宛てたハガキが学校に届いたということだ。
そのハガキはしばらく校内の、それもとびきり目立つ場所の掲示板に貼り出されたあと、僕の手元に渡った。
高校生の女の子からのハガキだった。
そこには(だいたい)こんな感じのことが書いてあった。
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今朝、近くの木の枝に、あなたの風船が引っかかっているのを見つけました。
風船はすっかり破れていたし、紙も汚れていたけど、書いてあることはしっかり読めました。
それを読んで、私も自分の小学生の頃のことを思い出して、懐かしい気持ちになりました。
学校は楽しいですか?
友達といっぱい遊んでいますか?
きっとたくさんの夢や希望を持って毎日をすごしているんだろうなあ!
そうだ、私も頑張らなきゃって。
なんだかそう思えました。
今日は、とてもいい日です。
あなたの夢が叶いますように。
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彼女に返事を書いたのか、どこの高校に通っている人物だったのか、まったく記憶にないけど、
手紙の内容だけはこんな感じで思い出すことができる。
学校のイベントに強制参加させられて特に思い入れもなく飛ばした風船であっても、
実在する誰かから本物の返事が届いたことが、強烈な印象として残ったのだろう。
残念なのは、いったい当時の僕の夢が何だったのかさっぱりわからないことだが。
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人はなぜ、文章を書くのだろう。
僕は決して、言葉は素晴らしいとか、
文章を読んだり書いたりする人間は偉いとかいう立場を取るつもりはない。
人間が文章を書くのは、できるだけ多くの人にたくさんの情報を伝えるためだったり、
外部デバイスに記録して固定化ないし安定化をすることで、
各個体が得た情報の損失を低減するためだったりする。
言葉は人間の脳に情報を入力するための命令信号であり、
文章はそのコードをうまく機能させるための組み合わせにすぎない。
それでも時々、人間は理に適わない行動を取る。
小学生にはとうてい理解できないような個人的な思いをハガキに込めたり、
誰が読んでいるのかもわからないブログに書きなぐったりする。
そこには、言葉に期待されている本来の機能はまったく見当たらない。
そこにあるのは、誰にも自分の言葉は伝わらないかもしれないけれど、
ひょっとしたらいつか誰かが気づいてくれるかもしれない、という切ない願望と、
そして、自分が書いた文章の、まるで山彦のように遅れて返ってくるその響きを
自分自身が聞くことによって、今自分がどこにいるのかを知ることができるかもしれない、
という淡い期待がないまぜになった感情だけである。
僕はそれを単なるオナニーだとか負け犬の遠吠えだと、
ばっさり切り捨てる勇気を持ち合わせてはいない。
未来と現在との接点というのは、そういうあいまいで
不安定な磁場が形成され続けられる中でしか、生まれ得ないと思うからだ。
少なくとも僕にとっては、文章を書くこととは、確定した過去を守りぬくことではなく、
あいまいであっても今より面白そうな未来を描くことと同義である。
そういう意味では、あの風船にくくりつけた願い事が
何だったかを憶えていないのは、なんとも残念な話であるが。