言語化能力は、そこまで必要じゃないと思う。





僕にとっては、このブログは自分語りの場所なので
当然のごとく、自分の言いたいことだけを書く。
できるだけ読みやすい文章にしようとは努力しているし
読んでもらえる人がいるのはとてもうれしい。

しかし、結局、自分のことだけを書いている。

その理由は色々あるけど、結局僕の場合は
普段は、色んな人や組織のために表現することばかりなので
よっぽど自分のことを話したい欲求が溜まっているんだろうなあということで、
まあ、恥ずかしいことなのは間違いない。

ところが(以前も書いたけど)中途半端に文章を書けるせいで
僕は僕自身をついついうまく騙してしまう。

自分のやっていることの正当化とか、他人の努力の批判とかでも
いいこと言ってる風に、それっぽく書いてしまうので
自分ですっかりその気になってしまうのだけど
まあ、そんな立派な人間では一切ない。

場合によったら、ブログで書いてすっきりしてしまい、
結局、問題意識を実生活に反映できずにいることもあると思う。



これをもって、僕は自虐的な話をしたいわけじゃなく
要は、言語化能力というものを磨きすぎることが
いつだって正しいわけじゃない、ということが言いたいのである。

残念ながら、仕事をしていると、そういう能力はイヤでもどんどん磨かれていく。
自分の弱い部分とか、ダメな要素を、どうやって隠すかとか、
逆に得意なところにどうやって我田引水していくかとか、
そういう駆け引きばっかりして、頭の変な部分にだけ偏った筋肉がついていく。

しかし、そのアンバランスに発達してしまった言語化能力を
ついつい「楽だから」という理由で多用していると
他の部分が育ちにくい。

本来ならリーダーシップとか責任感が育つはずだった場面でも
口先だけの言い訳でするっと逃げ切ってしまったり
実行力や推進力というゆっくりとしか成長しない芽が
プレゼンテーションみたいなペラペラした薄い葉っぱの影に隠れてしまって
十分に発育できなかったりする。

その結果として、僕のような偏った人間ができてしまうのだが
もはや、僕の人生というのは、ある意味終わっていて
これからは自分の子供だったり、若い世代が生きていく世の中の
良い肥料になれたらいいなあと思っているので、もういい。

だからこそ、思う。
あまりに言語化能力やコミュニケーション能力を
重視しすぎる必要はないんじゃないか。

たしかに、自分が考えていることや、思っていることを
他人に伝えることは大切だとは思う。

しかし、そのためには難しいボキャブラリーも必要なければ
相手を翻弄して、自分の有利な土俵へと誘いこむテクニックもいらない。

重要なのは、痛い時は「痛い」と言うことや、そう言える状況があることだし
共感をおぼえた時は、相手を抱きしめてあげることが大切であり
また、それができる空気があることだ。

それは、すごくシンプルなことで、小さな子供だってできる。
なのに大人になるとできなくなるのは、簡単な理由である。

他人から、バカだと思われたくないからだ。

もし、そういう理由で、自分の本当に思っていることを
言葉にできずにいる人がいるなら、こう言っておきたい。

その人がバカかどうかなんて、他人が決めることではない。

そして、どんな人間であれ、相手をバカだと決めつける程度にしか
知能を持ち合わせていない人間に、自分の評価をゆだねるのはやめたほうがいい。


これは、自戒をこめて。