コンテンツ、という言葉が今のような意味で使われ始めたのは
意外と最近のことで、
メディアという言葉が浸透して、かなり経ってから
よく使われるようになったみたいだ。
よく考えれば当たり前の話で、
メディアという乗り物が先に知られるようになり
そのあとで、その乗り物に何を乗せるべきかということになるからだ。
そして、そのコンテンツが独り歩きしたり
コンテンツを中心に「メディアミックス」が行われたりするようになってきて
コンテンツの時代がやってきたように見えたが、
情報革命によって、すっかり状況は変わってしまった。
結局、世の中にはコンテンツと称されるものがあふれかえってしまったので
1つ1つの価値も低下していったし、価値の基準も変化していったから
人々の関心は、良質なコンテンツをどれだけ集めるかということや
集めたコンテンツを潤滑油だったり燃料として活用しながら
自分たちのサービスやシステムをどうやって普及していくかということに、移っていった。
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こうしてシステムの奴隷と化してしまったコンテンツだけど
いうまでもなく僕が関わっている広告表現の世界は、完全にその地位に甘んじている。
よく考えれば、それは昔から当たり前だったのだけど
それでも、公共の電波を使ったり、新聞を使って、何かを表現することが
まだ特別な行為だった頃は、何も疑問を持つこともなかったのだろう。
それが、誰でも自分の表現で有名になれるチャンスのある時代では
特別な権利でもなんでもなくなってしまったのだから
そりゃ、みんな、悩むわけである。
しかし、と僕は思う。
これは、表現者からすると、ものすごく大きなチャンスでもある。
というのも、ほとんどのWEBサービスやSNSは、まだコンテンツという
外部情報をハブとして、利用者を呼び込み続けている。
(時間の問題だとは思うが)
コンテンツの生成について、今のところ一番詳しいのは表現者自身のはずだ。
であれば、システムが世の中を覆いつくしてしまう前に
表現者は、新たな意味を世界にもたらすような何かを生みだせばいいのだ。
それは、コンテンツの次に来る何かである。
このポスト・コンテンツの存在を現実にできるのは
表現の力を信じる者だけだし、表現とはそもそも何なのかを知っている者だけだ。
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では、表現とは一体何か?
ここで僕は乱暴な結論を出しておこう。
表現とは、疑問を投げかけることである。
このままで僕たちは本当によいのか?
お金を儲けるだけで幸せになれるのか?
システムに支配されて生きるだけでいいのか?
そういったことに明確に疑問を投げかけ
世界をいつも不安定なものに保ち続けること。
これが、表現の役割だと思うのだ。