僕らは物心がついた頃から、進むべき道を知っていたと思う。
ひらがなを全部読めるようになればいい。
小学校に1人で通えるようになればいい。
スポーツや受験でライバルを競い合えばいい。
就職してお金をもらえばいい。
結婚して幸せになればいい。
家族に見守られながら死んでいけばいい。
その道が、ふと気づくと、見えなくなっていた。
世の中に、まるでひどい嵐のような大変化が巻き起こって
乱暴に地表にあった色んな目印を削り取っていったので
僕らはいったいどっちに曲がればいいのかとか
曲がらずにまっすぐ行くべきなのかとか
判断することが難しくなってしまった。
色んな道を歩きなれてきた先達たちは
わずかな道の残骸をもとに、全体像を推し量って
ちょっとずつ前に進んでいくけれど
それが決して正しい方向であるとは限らないことに
後続の僕たちは気づいているので、自然と足が鈍るし
もっと後ろの方から歩いてくる若い人々は
先頭集団が誤って断崖絶壁のほうへ向かっていないかを
常に望遠鏡でちらちらと確認しながら
ゆっくり、ゆっくりとしか進まないと決めこんでいる。
★
これはポエムではなくて、僕の素朴な現状認識。
僕が今の年齢になるまでに、日本は、いくつかの大きな経験をしてきた。
バブル経済とその崩壊。
「不況」という言葉の定着。
いくつかの大きな震災。
そして、情報革命。
定年が近くなった諸先輩方に、最近、僕は必ず聞くことがある。
「これまでの広告屋としての人生で、今のこの時代よりも
大きな変化が起こったと感じた時はありますか?」
ほとんどの答えは、NO、だ。
もちろん写植が無くなった時とか、フィルムが不要になった時とか
小さい驚きは色々とあったらしいが
やっぱりインターネットの台頭ほどのインパクトではなかったらしい。
まあ偶然、広告代理店という、情報産業で働いているから
その影響をもろに受けているわけで、他の産業は違うかもしれない。
だけど、非常に手堅いメーカーに勤めている知人の
職場は一夜にしてアメリカ人のボスだらけになってしまったし
将来を嘱望されて医師になったクラスメートは
なぜか法律の勉強をするために大学に戻ってしまった。
それは彼らのそれぞれの事情だったり意志だったりするので
すべてを世の中の変化のせいにするのはおかしいと思うけど
とにかく、若い頃にイメージしていた未来とは
まったく違ったものがやってきていることは間違いない。
そして、今の僕たちにできることといったら
そんな新しい現実を受け入れることしかない。
これまで進んできたような道は、もうこの先にはない。
僕らよりもずっと前を歩いてきた人々が語るような
幸せや喜びといったものは、すっかり形を変えてしまった。
そのことを、受け入れるしかない。
★
一方で、僕らは新しいものを発見することもできる。
資本主義のやわらかな崩壊と、情報革命による平均化という地盤の上に生まれる
ちょっと違った価値観たちと、それらによって引き起こされる生き方の変化。
そこにはまだ道しるべはないし、舗装された歩道なんてもちろんない。
でも、とてもありがたいことに、旅人を惑わすような余計な昔の道の残骸もないのだ。
だから、僕たちは心ゆくまで歩き続けることができる。
どこへ行くのも、どこで立ち止まるのも、そしてまた歩き始めるのも、すべてが自由だ。
正解なんて、どこにもないんだから。
さて、それを不幸だととらえるのか、幸せなことだと考えるのかも、自由である。
少なくとも僕は、もう諸先輩方が踏みしめてきた足跡だらけの道を歩くのはやめた。
それはそんなに難しいことじゃなくて、会社での出世をあきらめるとか、
他人の成功をうらやましく思わないとか、始めてのことに挑戦してみるとか
あと、自分の行動と結果に対して自分で評価を与えてみるとか、
そういうシンプルなことである。
多少なりとも、孤独を感じることは否定しない。
空気の読めないやつだとか、付き合いの悪いやつだとか
思われているのは知っている。
だけどまあ、ある程度さみしい思いをしても
次は何をやってみようかとワクワクしながら
毎日を過ごせるほうが、楽しい人生だと思うのだが
まあそれは人それぞれなんだろうな。
実は、ちょっとくらい孤独でいるほうが
人との出会いをありがたく感じられると
思うんだけどね。