好き、と言える喜びについて。






よく商品やサービスのユーザーに取材をするけど、
いわゆる「愛用者」という人々は、
自分の好きなものについて本当に楽しそうに語る。

まあ、それはどこまで本気なのかはわからないけど
少なくとも他の話題について話している時よりも
表情も明るくなり、語彙も豊かになり、話す時間が長くなる人が多いのだ。

彼らのそういう状態を切り取ることで、広告やテレビは
その商品やサービスがさも素晴らしいものなのだという
伝え方をするのだけど、ちょっと違う気がしている。

たぶん、本来は「好き」の対象となるものは何でも良いのである。
別にそのへんに転がっている石でも、空になったペットボトルでも
好きになれたらそれでいいのだ。

で、それをいかに自分が好きなのかということについて語る。

その行為自体が楽しいのだと思う。



ものすごくクールに言えば
何かの対象物を「好き」と自分が言えることは
そのまま「好きなものを胸を張って言える自分」
を自己肯定する作業なので
基本的に、本人にとっては楽しいことなのである。

だから人は好きになれるものをいつも探しているし
それは恋愛でも買い物でも就職でも、なんでも同じなのだと思う。


じゃあ、みんなが各自の好きなものを追いかけていれば
それで平和な世の中じゃないか、と思うのだが
これが本当に難しい。

人間の「好き」という感情はずっと続くわけではないのである。

人は、何かの拍子に、いままでハマっていたことに急に関心を失う。
きっかけは色々で、
いざその道を究めようとしたら
途方もない距離があることに気づいてしまって
テンションが急落してしまうこともあるだろうし
他にもっと楽しそうなことを知ってしまったせいで、ということもあるだろう。

いずれにしても、僕たちの欲望というものは際限がないし
マーケティングの亡霊たちは次々と消費者の心の隙間を狙って
襲いかかってくるので、いつまでも何かに対して「好き」という
気持ちでいられるのは難しい。



そこで最近思うのは、長いこと「好き」でいられることも
努力だったり工夫がいる、ということなのだ。

たとえば、周りをあえて見ない、というのも大事なことかもしれない。

自分よりもそのジャンルで詳しい人や良いものを持っている人と
あまりに接触しすぎると、自分がこれから到達するべき地点が
先に見えてしまって、好奇心やモチベーションを失うことがある。

それから、ある程度、いつも距離をとっておくとか
頻度を上げすぎないのも、大切なポイントかもしれない。

そして、自分だけの目標を設定したり、楽しめるポイントを作っておく。

そうすれば他人の評価や意見に惑わされずにすむ。

また、矛盾することかもしれないが
そんな自分の楽しみ方を、他の人と共有できるような
仕組みもあったほうがより楽しいだろう。

アメリカに住んでいる友人で、写真が趣味の人がいるのだけど
その人はいつも自分のお気に入りの写真を持ち歩いていて
会う人、会う人に、それらを披露してくれる。
その紹介の仕方が実にユーモアたっぷりで、おまけに楽しそうに話すので
見ている人まで温かい気持ちにしてくれる。

そういう「見せっこ」みたいなのは、
小学校の頃から鉄板のコミュニケーション方法なのである。



さて、もちろん、そんなに一生懸命努力してまで
自分の「好き」を継続する必要があるのか、
という話になるだろう。

しかし、僕は全身でそれを肯定するつもりでいる。

何しろ、この世の中の資源は有限だ。
人のものを欲しがっていたらキリがない。

それは若い人だったり、今から経済成長していく国々に譲ろう。

それよりも、今ある資源を活用して、
どれだけ楽しむことができるか。

その知恵こそ、大人になった僕達には必要なのだと強く感じるからである。