表現の「即興性」が当たり前な時代に、思うこと。

 

 

 

ジャズを聴くのが、大好きだ。

でも、正直に言えば、趣味というところまで深化していないので

特に好きなバンドやアーティストがいるわけでもないし

歴史やらジャンルやら音楽理論やらは全く知らない。

その証拠に、ジャズのほとんどがその時の思いつきの

即興演奏だということも結構最近まで知らなかった。

(というか、そこまで考えたことすらなかった)

 

即興といえば、能もそうらしい。

演じられる内容や台詞はずっと昔から決まっているのだが

出演するメンバーは事前に「合わせ」とかはしないのだそうだ。

その時の相手の声の出し方や間などに呼応して

自分の演じ方もどんどん変わっていくらしい。

 

ただし、能でもジャズでも、その即興に対しては

「一緒に出演するメンバーとの掛け合い」が大きな係数であって

(あるいはその時の体調だったり、機嫌だったりであって)

「それを見ている人々」の影響といえば

「場のノリ」というくらいだったと思う。

 

 

ところが最近、ツイッターやユーストリームみたいな

「生放送」ツールが増えてきたおかげで

ちゃんとコメントや写真などで「聞こえる声」として

表現者に届くようになり、

これまでの「即興」とは

大きく違う変化が起こっているように感じる。

 

ある表現をしている人間が

ちゃんと意味のあるメッセージを

自分の表現中に受け取ることができる。

そして、そのメッセージが

自分の考えや感覚を変えるに値した場合は

すぐさま表現者は、表現方法を変化させることができるのだ。

 

 

こうなると、もはや「表現」というものは

特定の人間にだけ可能なスキルではなく

「それを鑑賞する人々」とともに作るもの、

という性格が強くなってきたと思う。

 

だから表現者は「どんな人々の前で表現をしたいのか」

「どんな人々とそれを共有したいのか」を

もっとちゃんと考えなきゃ、と思う。

 

得てして広告屋は「なるべく多くの人に拡散を」

なんて言ってしまいがちだが、これは呪いの言葉であって

自分たちだけで「なるべく多くの人」を相手にできるという

思い上がりでしかない。

 

ザ・ケルン・コンサートだって

ケルンじゃなければ意味がなかったに違いない。