ふと思い出した。
10代の頃、何か楽しいことがあるたびに、この時間がずっと続いてほしいけれどそれは絶対にありえない、人生において楽しいことばかりは続かない、とよく思っていた。
その予感はやっぱり正しくて、あの頃の、全身がしびれるようにドキドキするような体験というのは二度とやってこなかったし、それは別に10代に限らず、いつだってそうなのだ。
楽しい時間も、苦しい時間も、同じものは二度とやってこないし、それは他の人には体験できないものだ。時間は切り分けたり、交換したりはできない。
しかし、これと正反対の時間感覚について語られるときがあって、それはよく生命保険や住宅ローンのときに語られるような世界観で、お子さんが成人したときにはこうなります、とか、何歳のときにこうなります、そのときに得られる利得はこれだけです、といった経済学の発想である。
経済学では、一年は誰にとっても同じ一年として数えられる。
多感な10代における一年も、死にかけた老人における一年も、同じ一年。
いまの世の中というのは経済学という合意にもとづいて動いている部分が大半なわけで、つまりは誰もが貨幣と同じように時間についても同じ価値を感じている、という前提でぼくらは生活している。
そしていつも自分たちが何年先にどうなっているかを考え、これに備えるような行動をとっている。
だけど、これはずいぶんえらそうな考え方だ。
いったいぼくらは、これから何年生きると思っているのだろう。
いまの人生がいつまで続くと思っているのだろう。
この世の中がいつまであると思っているのだろう。
もちろん、「仮に世の中がずっと続くとして」「仮に自分は80才まで生きるとして」という仮定を前提にしないと考えというのは前に進まないから、その仮定自体を傲慢だとは思わない。
しかし、これを当然だと受け入れて生きていくにはあまりにも人生というのは不安定だし、人間の感受性というのは変化しすぎる。
ぼくは別に1日1日を大切に生きましょう、みたいな教条的なことを言いたいわけではない。
ただ、時間という、絶対的に普遍なものだと思われている概念ですら、人間同士の思いこみによって成立している部分もあるのじゃないか、と思うし、そういう感覚というのを大切にしたいなと思う。
ある人にとっては今の時間は未来への投資かもしれないし、ある人にとってはただただ暇つぶしの対象かもしれないし、ある人にとっては何か不安なものが差し迫るのを待つおそろしい瞬間の連続なのかもしれない。
これをまとめて、みなさんだいたい80才まで生きるとしましてとか、3年やれば身につきますよとか、あまりそういう乱暴な話ばかりを信用しないようにしたい。
ぼくはぼく、あなたはあなた。
お互いに全く違う時間の中を生き、偶然にもここで出会った、そのことのほうがずっと大事なのだ。