世界は、人の数だけゆがんでいる。


腰痛がひどい。



もともと椎間板ヘルニアを持っているので、基本的にずっと腰は痛いし、右足がちょっとしびれた状態が普通なんだが、家で座り続けているのがたたったのか、久しぶりにひどく痛い。
3月の下旬からはほとんど家にいるので、まあできるだけ子どもと公園で運動するようにはしているけれども、それじゃ足りないようだ。

もう、ふた月近く、家で仕事をしていることになる。
ここまで、子どもたちの面倒を見て、合間に仕事をして、の繰り返しで、色々と失敗もしたし、たくさんの反省点があるが、まあよくやってるなと思う。

はじめて自分が椎間板ヘルニアだと診断されたのは、会社に入って二年目の頃で、とにかく毎日徹夜状態が続いていた時だった。
その頃は、いくら働いても終わりがなくて、会社にこもってずっと作業をしていて、ふと空いた時間に間食を取ることぐらいしか楽しみがなかった。
もともと腰は良くなかったうえに、体重がどんどん増えたせいもあって、ついに症状が出たらしい。
そこからは、ずっと痛みと付き合い続けている。

あの頃のぼくの関心というものは、ぼく自身だけだった。
ぼくがどんな仕事をして、どんな機会をものにして、どんな成果を上げて、どう成長していくのか、そういったことばかり考えていた。
じゃあいまはそうじゃないのかと言われたら、別にそんなわけじゃなく、相変わらずぼくは自分自身に関心がある。
ただ、ちょっと変わったところがある。
それは、ぼくの関心は、ぼくの成長とかぼくの将来というよりは、ぼく自身が経験する物事をどのように感じているのか、ということに向かっている、ということだ。

たくさんの人々が、いかに今が大変で、とても困難な状況なのかという話をしている。
ぼくも頭ではそうだよなと考える。
だけど、ぼくはどこかでほっとしている。
これまで、ぼくの頭の中には、あれもやらなくちゃいけない、これもやらなくちゃいけない、という小さな焦りがぎっしりと詰まっていて、たくさんのアプリケーションを同時に起動させたせいで動けなくなっているパソコンみたいに、すべてが停滞していた。
でもいまは、いやもうこんなフルタイムで家庭保育園を運営している状態の中で、仕事なんてやってられないし、と思うと、妙に開き直った気持ちになれる。
自分の得意なことや、人から喜ばれることだけをやろう、とあきらめられる。

ぼくにとっては、自分がそういう感じ方をしていることに気づくことのほうが、世の中でどんな言説が流行しているのかを知るよりも、大事だ。
ぼくはいつも、ぼく自身のおんぼろのセンサーを通して受け取る、多分にゆがんだ情報のほうを優先する。
だって、他の人と同じように世界を見て、同じものを感じ取り、同じ意見を持つのであれば、ぼくがいる意味なんてないじゃないか。
そう思う。

一方で、それとまったく同じ理由で、他の人が、その人なりに感じたことを知ることにも関心がある。
ああそんな風な世界の見方があったんだなと気づくのが楽しい。
だからぼくは人の書いた文章を読む。
ぼくが腰痛に苦しんでいるあいだに、他の人は一体どんなことを感じているのか。
そういうことにも、やっぱりずっと関心があるように思う。

世界は、人の数だけゆがんで存在している。
だから、安心して、この世のゆがみを堪能していたい。

以上は、phaさん(id:pha)の素敵な文章を読んで、思ったこと。

誰にも読まれなくても文章を書く - phaの日記

"「面白いですね」と褒められても、「まあそれはそうでしょ、それは僕が面白いんじゃなくて世界が面白いんだから、当たり前」と思っていたりする"

2020/05/13 08:41

不要不急な、ぼく。

 

 

 

 

自分は世の中に絶対に必要な仕事をしているのか、と言われたら、そうだと堂々とぼくは答えられない。

 

 

 

もちろん色んな企業や団体の役に立ったり、その結果、生活が豊かになることに貢献したりはしていると思うけれど、ぼくがいなくなってもどこかに代わりの人がいて、その人がちょっと忙しくなるくらいだろう。

人命に関わるような問題は起きない。

 

人命に関わる仕事といえば、医療と食べることと住むところぐらいだろう。

不要不急と言われたら、あとのことは全部不要不急なのじゃないだろうか。

いや、それじゃ経済が止まってしまう、というけれども、医療と食べることと住むところが確保されていたら、別に経済が止まっていても、誰も困らないのじゃないだろうか。

たとえば、その3つのことについては、誰もがなんらかの方法で関わって役に立ち、それ以外の時間は自由にすごす。

そんな風な世界であれば、別に誰も困らないのじゃないだろうか。

 

とまあそんな簡単にいかないのが人間だ。

すぐにそのルールを守らない人が出てくるし、仮に誰もがルールを守ったとしても、競争が生まれないから技術は今のようなスピードでは進歩しないし、じゃあ難病をどうやって直すのかとか、うまいメシを食べたい場合はどうしたらいいのかとか、便利な場所に住んでいるやつはズルいじゃないかとか、いろんな不満や問題が出てくる。

そして、それらを調整する役割の人の権限が大きくなってしまって、みんなの生活がその人の倫理観や価値観に左右されるようになってしまうわけである。

 

 

結局、何が問題なのかというと、人間は人間の欲望とどう向き合っていくのか、ということのような気がする。

うまいメシを食べることも、素晴らしい芝居を観ることも、スポーツを通して能力と努力を競い合うことも、人間の際限ない欲望を上手に満たす方法だ。

そういうものがなければ、ぼくらはもっとわかりやすい欲望、たとえば他人を力で支配するとか、誰かの大事なものを破壊してすっきりするとか、怒りのままに暴れまくるとか、そういった方向へと突き進み、簡単にこの世界は失われてしまうだろう。

もうちょっといえば、「生きたい」ということだって、人間の根本的な欲望だ。

「生きたい」という欲望を満たす手段は不要不急ではなくて、それ以外は不要不急だ、というのも、まあわかるんだけど、そうあまりにもバッサリやられると、他の欲望たちの肩身が狭すぎるように思う。

人間というのは「生きたい」以外の欲望をうまく扱って、自分だけではなく他の存在も生かすことに成功している。

あの店がなかったらうまいメシが食べれないよな、あの芝居が観れなかったら楽しみが減るよな、あの競技が見れなかったら人生がつまらないよな、そう思うから、「生きたい」こと以外のものにも対価を払う。

そして、その時点で、ぼくらにとっての「生きたい」という欲望は、ただ自分の生命を維持したいというだけのものから拡張され、もっと複雑で、込み入ったものに変質しているのだ。

それを、いや、生命を維持する活動以外は不要不急のものだから、と今さら区別しようとしても、それは難しいことなのではないだろうか。

 

たとえば、子どもを産み育てることだって、とらえようによっては不要不急の行為だ。

自分たちが子どもが欲しいから勝手に作っているだけであって、そのせいで他の人の食べる食料が減ったり、貴重な大人の労働力が一時的に減ったりするのだから、はた迷惑だと言われたらそこまでだ。

 

 

だからこそ、ぼくはいま不要不急のものをもっと見つめたいと思う。

生命を維持することは大切だ。

命がなければ何もできないからだ。

だけど、命のあるすべての人が、他の人の生命を維持するためだけに生まれてきたわけではないだろう。

それじゃなんのために生まれてきたのか?

それが、不要不急と切り捨てられそうになっているものの中に隠されている。

すべてを確保することはできない。

その中で、自分がこれだけは譲れないと思えるものだけを、ほんの少しだけ持ち帰って、それを育てていきたい。

それは、たとえば、ぼくにとっては、妻と力を合わせて子どもを育て、未来に命をつなぐこと。

人がやる気になったり創造的になったりできる仕事を極めること。

そして、文章を読んだり書いたりすることを、ほんの少し。

他の人にとってはどうでもいいことかもしれないが、これらは、ぼくには必要火急のものなのだ。

 

ぼくは以前から、自分はなんのために生まれてきたのか、自分が生まれてきた意味とは一体何なのか、ということをよく自問自答してきた。

あまりにもそればかり考えているせいで、実際の行動が伴わず、ぼんやりと生きてきたようにも思う。

だけど、今こそ、そのぼんやりと積み重ねてきたものを生かすときだろう。

ぼくの欲望を満たすために、頭をしぼり、それと同じかそれ以上に手を動かすときだろう。

 

ぼくは、ぼくという不要不急の存在が、自分の生きてきた意味を無理やり作り上げようとすることを、恥ずかしいとか、みっともないとか、まったく思わない。

 

それが、生きることだと思うからだ。

在宅勤務なので、小遣いカットになった。

 

 

 

 

小学校が休校になったあたりから在宅勤務が増え、クライアントに行かないといけない場合も直行直帰していたので、長らく外食していない。

 

 

 

いまは歓送迎会のシーズンだが、今年はそういうこともやらないので、使うお金は減るやろ、ということで小遣いが減額になった。

おまけに昼食は無料、電気もWi-Fiも使い放題やねんから、となるとまあそのとおりなので仕方がない。

先月のはじめに、ひょっとしたらしばらく家にいることになるかもなと思って前から読みたかった小説をいくつかまとめ買いして、そのぶんがかなり痛いが、まあ仕方がない。

ただ誤算だったのは、家にいてもずっと仕事が忙しくて小説を読むヒマなんてない、ということで、朝からずっとオンラインで対話をしたり、作業をしたりで、昼食をとる時間を確保するのもやっとという感じだ。

でもまあ、小説は今すぐ読めなくてもいずれ読む機会はあるだろう。

 

家で仕事をしていると、何にどのくらい時間がかかっているのかがよくわかる。

ぼくはどうも人から相談を受けている回数と時間がやたら長いことがわかってきたので、できるだけ一度の相談の時間を短くして、残りはチャットでやるとか、先に悩み事をまとめておくようにしてもらうとか、そういう工夫をしはじめたが、うまくいくかどうかはもう少し様子を見たい。

相談というのは、する方もされる方も技術が必要だ。

相談をする側は、そこで何を相談して、どんな援助が欲しいかをはっきりさせておく必要がある。

だがだいたいの場合、そのどちらも不明瞭な状態で、相談はやってくる。

なので、相談を受ける側は、それを明らかにするために時間と労力を割かないといけない。

というか、相談という名がつくもののほとんどは、その人の悩みは何で、そのために今できることは何で、今すぐできないが時間をかけたらできることは何で、そしてどれだけ時間と労力を費やしても可能になるかどうかわからないことは何か、というのを明らかにするための、割と骨の折れる作業なのである。

 

相談に乗る際に、割と気をつけないといけないのは、結論を出すのは相談に乗る側ではない、ということだ。

相談に乗る側がいくら正しい結論を出して、それをするべきだと相手に伝えても、相談者が納得しなければ何の意味もない。

だから、相手の考えるペースにある程度付き合って、本人なりの結論ないし仮説が出てくるまで待ってやらないといけない。

だが大抵の場合は、みんな辛抱できなくなって、途中からは相談を受ける側は同じ結論ばかりを繰り返すようになり、相談者は同じ葛藤についての言葉ばかりを繰り返すようになり、お互いに疲れ果ててしまう。

まあなんにせよ相談に乗るのはなかなか骨の折れることなので、対価をもらう意味は十分にあると思う。

そう考えると、何も見返りも求めずにぼくのわけのわからない相談に付き合ってくれた人たちにはもっと感謝したほうがいいな、とも思う。

 

外では桜が咲いていて、窓から入る風が気持ちいい。

ぼくはしっかりと整備された桜の名所よりも、静かな住宅街で一本だけそっと咲いている桜や、緑の木々の中に混じって立っている山桜を見るほうが好きになった。

見事な霜降り肉よりも堅めのひなびた鶏肉のほうが好きになったのと同じで、まあしっかり高齢化しているのだろう。

服も最近は、紺色とか濃いグレーとかを好むようになってきて、赤や黄は差し色でいいかなと思うようになってきた。

一方で、妻はもっと堂々と咲き誇る立派な感じの桜が似合うような気がするし、派手な柄の服もいまだに見事に着こなしている。

まあ人それぞれだ。

 

わが家で小遣いカット臨時法案が可決されたあと、妻は職場に向かう電車の中で、いつも見かける会社員らしき男性たちが、はじめて在宅勤務をしてみたものの、奥さんに気を使って非常に大変だった、在宅なんてとんでもない、という話をしているのを耳にして、思わず笑いそうになったらしい。

それを聞いてコメディ映画の一場面みたいだなと思った。