言葉に頼りすぎるのは、もうやめたい。

 

 

 

人に何かを言葉で説明したとして、まあその内容が相手に伝わることなんてほとんどないなと感じることが増えた。

 

 

 

これまでは運よく、自分の話を聞きたがってる人に向けて話すことが多かったので、自分が考えていることや伝えたいことをわかりやすく話す工夫をすればいいだけだった。

最近は、仕事にせよ、生活にせよ、自分の考えを言葉で伝えても、相手が聞いてくれないことが増えたし、聞いてくれたとしても、実際の行動が変わるところまではいかない。

こういう状態が続くとだんだん自分の元気が減っていって、何かを人に伝えようとする気力がなくなっていく。

じゃあもういいや、全部自分でやって、できないところはやらなくていいや、となって、行動的でなくなっていく。

 

だけど、これはぼくの勘違いというか、検討違いで、基本的に言葉なんかでは、何も変わらないのだ。

実際に行動を起こしてみて、ああこの人が言いたかったのはこのことねと気づいてもらうまで粘らないと、伝わったとは言えないのだ。

 

もっと言えば、言葉だけで何かを伝えようとするのは、ただの手抜き、めんどくさがり、怠惰かもしれない。

昔はそれでも言葉には多少の意味があった。

だけど誰もがこんなにたくさんの言葉を吐き出し続けている世界では、もうダメだ。

みんなが言葉の洪水の中に飲み込まれ、何に耳を貸し、何を信じて、何を信じなければいいのかを考え続けることに、もううんざりしている。

 

ぼくにできることなんてほとんどなくて、いま自分がやるべきだと思う行動を起こし続けることぐらいだろう。

腐らず、あせらず、あきらめず。

人の行動を促すのは、誰かの言葉ではなく、すぐそばの人の行動なのだ。

 

まあそれは別に昔からそうであって、ぼくが手を抜いてめんどくさがって怠惰でいただけの話なんだけれども。

あせらない、あきらめない。

 

 

 

 

もう10年近く前、関心を持ったことがあって、細々と実験をしていて、まあなかなかうまくいかなかった。

 

 

 

それでもあきらめずに続けていたら、と思うことが時々ある。

じゃあなんであきらめたのか、というと、まあ色々と理由はあるけど、結局は不安に負けたのだと思う。

こんなことを続けていて本当にうまくいくのか、会社から評価されるのか、給料は増えるのか、未来はあるのか、いくつもの不安があって、それを乗り越えられず、色んなことを言い訳にして、逃げてしまったのだと思う。

 

一方で、同じような取り組みをあきらめずに続けてきた人たちは、素晴らしい成果を上げている。

そこにはあきらめずにすんだ色んな理由があるだろうけど、とにかく、彼らはあきらめなかったのだ。

 

世の中はさらに変化するスピードを増し、今日学んだことが翌年には陳腐化し、次の年には何を遅れたことを言ってるの、となる。

それはたしかだ。

だけど、本当に大事なことはそんなに簡単に消えない。

何かに強烈に心を打たれ、それが自分のこれからやるべきことだと思えたなら、周りがどう評価しようと、未来が見えなかろうと、やっぱりあきらめないほうがいいのだ。

あせらずに、何年かかっても、ちょっとずつ前進し、これまで見えなかった景色が広がってくるまでは、孤独と不安の中をもがき続たほうがいいのだ。

 

いまも数年間追いかけ続けていることがあって、だけどすぐに不安でいっぱいになってあきらめそうになる。

もうこんな年で何やってんだとも思う。

でもまあ、あの頃に学んだ、あきらめの悪さの大切さ、それだけがぼくの道標だ。

あせらず、あきらめず、しがみついていきたい。

 

 

 

命の時間には限りがある。

不安にいちいちおびえているヒマなんてないのだ。

ぼくらはみんな、ビョーキである。

 

 

 

 

シロクマ先生が、今の社会はみんなが軽躁状態であることを強いられているのじゃないだろうか、という記事を書かれていた。

ヒカキンを眺めていたら軽躁だらけの社会が恐くなった - シロクマの屑籠

 

 

 

考えてみると、ぼくはほとんど毎日何人もの人の前で自分の考えを話したり、相手の考えを聞き出したり、あるいは人と人が考えを表明しあうための手伝いをしていて、そのあいだじゅう軽い躁状態にある。

むしろそういう状態が楽しい、ということを広める立場を取っているように思う。

実際は、新しいアイデアが生まれる瞬間というのは実はすごく個人的で、密やかなものであって、いつもハイテンションでいる必要はない。

ただ、一定の機嫌のよさやワクワクとした空気があったほうが良いので、やっぱりちょっとテンションは高くなってしまう。

じゃあ、いつもそんな感じかというと、仕事がないときは割と静かにしているし、黙ってずっと作業をしているときも多い。

ぼくは基本的には、いつもハイテンションでいたら疲れてしまう人間なのだ。

そして、まあほとんどの人がそうなのじゃないだろうか。

 

ハイテンションと軽躁状態はきっと厳密には指すものが違うように思うが、いずれにしたってぼくらは社会において、活発に発言をし、派手なリアクションをし、他人の注意を引き、何かを(それは商品やサービスとは限らない)売りつけなければならない、というマーケティングの呪いみたいのものをかけられていて、それをビョーキと言ってしまうなら、まあなるほどビョーキと言えるのじゃないだろうか。

あるいは、売りつけたあとに相手との関係性をこじらせることなく良好に保たなきゃいけない、と思いこんで、夜な夜な飲み会を開き続けている人々も、やっぱりマーケティング病にかかっている。

あるいは、そういうやり方は好きじゃないから、と斜に構え、本当に自分に関心を持ってくれる人だけを大事にする、と言っている人も、「そういうやり方じゃないマーケティング」の病にかかっているだけである。

誰もが、自分という資源を使って他人の注意を引きつけ、何かを売りつけ、なんらかの方法でその関係性をつなぎとめ、定期的に利益を回収し続けなければいけない、という概念に従って、自分の頭と体を改造し続けているのだ。

 

じゃあ、こんな全員がビョーキになっている状態の中で、いったい何が正常なのか、異常なのか、あるいは健康とは何なのか、これはなかなか難しい。

こういったビョーキの、とある一面だけが変に突出したり、どう頑張っても別のビョーキな行動へと推移できなくなったりする、そういう状態が続いていくと本当のビョーキ認定されるということなのだろうか。

じゃあ、やたらとおしゃべりが上手だけど、なかなか商品が売れない営業マンには真のビョーキ認定が必要なのだろうか。

真のビョーキと認定された人と、そうじゃない人のあいだに、そこまで大きな違いがあるだろうか。

ぼくは、そこにはほとんど差はないと思う。

誰もがビョーキであり、その程度の違いがその人の個性を作っているだけだ。

だからあまり躍起になって、誰それは病んでるとか、誰それはまともだとか、考えていたってしかたがない。

 

それよりも、みんながビョーキでいる中で、ちょっとでも機嫌よくいる方法を試し続けるほうが、ずっとマシなのじゃないだろうか。

 

どっちにしたってぼくらは生きているあいだは色んな病と寄り添いながら暮らしていくしかないんだから。