男が育児をしていて、困ること。




ぼくはそれなりに育児に参加している。



男が育児をするのは大変なのかといえば、そこは男だから大変だ、ということはあまりない。

たしかにおっぱいは出ないが、だったらミルクをあげればいいし、乳幼児健診はお母さんだらけだが、子どものことに集中していれば周りは気にならないし、ママ友と公園で楽しくおしゃべりしたりはできないが、周りの子どもたちとも一緒にボール遊びをするぐらいはできる。

そのうち、ちょっとした料理ぐらいならできるようになるし、算数の宿題を見ているうちに数字がちょっと苦手でなくなってきたりする。

そうやって、子どもだけでなく、ぼく自身ができることが少しずつ増えていく感じはとても楽しくて、おまけに家族の役にも立ててうれしいものだ。

育児は楽しい。

そしてうれしい。


男が育児をしていてぶつかる問題は、育児そのものではないように思う。

問題は、自分が育児に取り組んでいるあいだに、仕事のライバルたちがどんどん先へと進んでいって、取返しもないぐらい差をつけられてしまうのでは、という不安、焦り、恐怖だ。

仕事のライバル、というとちょっと具体的すぎるが、何も隣に座っている同じ年齢ぐらいでちょっと上のポジションの憎いあいつ、という意味だけではない。

ああこうやって自分が仕事以外のことに時間を費やしているあいだにも、世の中の仕事のできる人はもっと難度の高い仕事に取り組んだりエライ人と飲みに行ったりしてどんどんステップアップしているのだろうな、週末には社会人大学に通ったり勉強会に参加したりしてどんどん賢くなっているのだろうな、というぼんやりとした想像をしてしまうし、実際にそうなのである。

そういうことを知らされるのが怖いのでFacebookを見るのが辛くなってくる。

Facebookには「休日返上でやってきたプロジェクトがついに日の目を見たぜ!」「超忙しいけど無理して週末にめっちゃ勉強して熱い仲間たちもできたぜ!」というような投稿たちがキラキラと輝いていて、ウンチとヨダレと公園の土にまみれた身にはあまりにまぶしくて直視できないのである。

いやそんなもん、平日に取り返せばいいんだ、と思えるときはいいのだが、あまり仕事がうまく行ってないときや、自信がなくなっているときだとひどくメンタルを削られるのだ。


育児をしていると、何もしないでじっと時間が過ぎるのを待たないといけない場面がある。

やたらと泣く子を抱き上げて寝るのをじっと待っているあいだに。

トイレでなかなかウンチが出ないのをじっと待っているあいだに。

お風呂の用意ができても服を脱ごうとしないのをじっと待っているあいだに。

ライバルたちは新しい仕事に取り組み、新しい学びや気づきを得て、新しい仲間と出会い、どんどん出世していく。

多くの男性が、育児や家事にもっと参加しなくては、と思いながらもブレーキがかかってしまうのも、これが原因じゃないだろうか。


それじゃ、この問題を乗り越えるにはどうすればいいのか。

ぼくがこのことに何年も悩み続けてきて出した結論は、もう他の人と同じゴールを目指すのをやめよう、ということである。

よく胸に手を当てて考えてみたら、遅くまで働いてエライ人とお酒を飲んで週末には勉強やネットワーキングに精を出して突き進んでいくゴール、というのは、もともとぼくが目指しているゴールでもなんでもない。

ぼくのゴールは、いかにして好きなことを仕事にするか、あるいはいかにして仕事を好きなことに変えていくか、いつだってこれなのだ。

育児なんてのは究極であって、わが子と一緒に暮らすのも楽しめないのに、果たしてどうやって他のことを楽しむのか、という話である。

そう思うと急に気持ちが楽になって、時間が過ぎていくことがちょっと怖くなくなったし、目の前の用事をちょっとでも楽しくしていこうと頭が働くようになってきた。


とはいえ、根本的な悩みは解消されたとは思わない。

結局、ぼくらは育児をしていようがしていなかろうが、いつだって競争にさらされ、生き残るために必死にならなければいけない。

そんな中で、働きながら子どもを育てていくのは、やっぱり競争においてはハンデであり、個人の努力だけではなんともならない。

社会自体が、もしこれからも子どもが生まれ続けることを望むなら、主婦が子育てと家事をして夫が外で働く、というベースに頼るのを止めなければいけないだろう。

子どもがいる人もいない人も、みんなで支えあっていく世の中にしていかなければいけないだろう。


ぼくは、これからもこの国に、新しい命たちが生まれ続けることを望んでいる。

色んなイヤなことはあるけれど、やっぱり生きることは楽しい。

最高だ。


だから、これからも、そう思えるような世の中であり続けることを望んでいる。

「書くこと」なんて、手段でしかない。




ぼくが、このブログを書き続けている理由のひとつは、変わり続ける世界と、それに合わせて変わり続けなければ生き残ることができないぼくの人生の中で、それでも変わらないものを確認しておきたい、というものだ。



そんな風に言うと、自分の中で永遠に変わらないものが存在するようだけれども、それは怪しい、と今は思っている。

ずっと変わらずに大切にしたいと思っているものも、実は少しずつ、自分も気づかぬほどゆっくりと、しかしもう戻れないぐらい大きく変化してしまっていて、それなのに、ぼくは不変のものだと思い込んでいるだけのような気がしている。


ぼくが自分の中で「変わらないもの」と認識しているもののうち、特に大事にしているのは「書くこと」だ。

たしかにぼくはずっと「書くこと」と共にあった。

子どもの頃から作文も好きだったし、創作もしていたし、国語のテストはだいたい満点だったし、日記も昔からつけていたし、ついには仕事にもした。

ところが、最近はこうやってブログを書くとき以外は、まとまった文章を書くことがひどく減った。

もちろん、何かを文章を書かないと落ち着かないのは変わらないのだけど、それを自分の「作品」として書いたり、残そうとしたり、という欲が減ってきたのだ。


今、ぼくの中では「書くこと」に対して、変化が起きている。


これまでの、特にコピーライターをしていた頃のぼくにとっては「書くこと」は、自分の考えを表現することであり、社会に関わる唯一の手段であり、自分の力量を試す戦場でもあり、心を鍛える道場でもあり、生きる意味そのものだった。

それは、すごく神聖な行為だったのだ。

だから「書くこと」が仕事でなくなってから、かなり長い間、その神聖な行為に関わる機会を失ってしまって、ずっと苦しんでいた。

でも、その苦しい長い時間の中で、ぼくは「書くこと」以外にも人生には面白いことが色々とあることを知った。

地域の存続に貢献できることもあるし、もっといろんな人を喜ばせることもできるし、これからの世界の在り方について考えていくこともできる。

そして、そういうことに関わるには、やっぱり自分には「書くこと」が手段として一番役立つのだ、ということもわかった。

いろんなことをあれこれ試してみても、人から喜ばれるのは、結局、文章を書いたときばかりだったのだ。


これまで、ぼくは「書くこと」を人生の目的そのものだと思いたがっていたように思う。

そのほうがずっと楽だし、目的と手段が合致する時間というのは、自分が透明になれるというか、余計なことを考えずに夢中になれる、すばらしい時間だ。

ところが、実際は、ぼくは「書くこと」以外にも人生にいろんな目的を持つようになっていく。

恋愛をしたり、結婚をしたり、子どもを育てたり、家族を存続させるために金を稼いだり、そのために会社での評価をなんとか上げようとしたり、会社自体がうまくいくように願ったり。

まったくもって、生きるというのはなんと多くの目的を必要とするのか!

そんな中で「書くことは、生きること」なんて言い切るような勇気は、ぼくにはまったくない。

そうだ。

ぼくはずっと前から(それはコピーライターになるよりもずっと前から)「書くこと」は生きるための手段でしかない、とわかっていたはずなのだ。

それなのに、かっこつけて、あるいは人生の目的をさっさと見つけて楽になりたくて、「書くこと」こそわが人生の目的だと決め込んで、あとの面倒なことにフタをしていたのだ。


そんなプロセスを経て、ぼくにとっての「書くこと」は、やっぱり自分にとって特に大切なことには変わりはないけれども、しかし生きる目的そのものではなくなった。

あるいは、元々そうだったのだけど、そのことに気づいてしまった。

ぼくは「書くこと」という、か細くて頼りない武器と、ほんのわずかのそれ以外の道具を使って、現実という名のとんでもない化け物を相手にしているという、そういう状況を認めざるをえなくなったわけだ。


現実と戦うのは、とても辛くて、苦しくて、孤独だ。

しかしぼくはもう、この戦いからは逃げられない。

だから、あらゆる手段を持って、挑み続けるしかない。

その時、自分が一番頼りにしているもの、昔からずっと親しんできて、しっくりと手になじみ、いつだって知恵と勇気を授けてくれたもの、それが「書くこと」だというだけだ。


「書くこと」は手段でしかない。

だからこそ、遠慮なくどんどん利用して、バシバシ鍛えて、めちゃくちゃに使い倒して、どこまでも共に進んでいこうと思う。



このくだらない、クソみたいな現実に、命一個ぶんを賭けた一撃を食らわせるために。

何かを純粋に楽しむのが、ずっと苦手だ。

若い頃から、すごく楽しいことがあっても、それを何もかもを忘れて夢中になって楽しむことが苦手だ。



楽しい瞬間は、永遠に続かないことがわかっているからだ。

それよりも、将来のためにやっておくことがたくさんある、と思って我慢していて、その結果、ちょっと息抜きのつもりで始めたくだらないゲームに大量に時間を使ってしまったり、どうでもいい他人の話を聞いているうちに無駄な時間がどんどん過ぎていったりして、とても後悔するのである。

それだったら、ちゃんと時間もお金も使って、たっぷりと楽しんだほうがよかった、と後悔するのである。


それじゃどういうときなら、自分は安心して夢中になれるのかというと、結局はそれをやっていることが意味のあることだとか、将来に役立つことだとかという保証のあるもので、だからぼくは夢中になれる仕事をしたい、といつも言っているような気がしてきた。

実際は、仕事をしているからといって意味があるかどうかわからないし、それが将来役立つかどうかなんて全く約束されない。

結局は、仕事だからという言い訳が欲しいだけなのだろう。


人間とは、なかなか面倒な生き物だ。

何かに夢中になる、という状態になるには、色んな口実を与えて、その強固な武装を解いてやらなければいけないのだ。


とかく世の中は、意味のないことで盛り上がったり、お金にならないことに夢中になったりする行為を否定しがちだ。

しかし、たまには無防備になって何かを夢中に楽しむ時間を過ごしておかないと、いざ自分の人生が終わる段階になって、さて自分は何のために生きてきたのだろう、とかモヤモヤしはじめるような気がする。

それよりは、ああ、自分の人生には大した意味はなかったけど、しかし色々と無駄な遊びに夢中になって、しかしまあ楽しかったなあと思ってニヤニヤしながらエンディングを迎えたいなあと思うのである。


もうちょっと肩の力を楽にして、ヘラヘラと生きていこうと思う。