幸せが、怖い。

 

 

 

 

あなたは十分に幸せだと思う。

 

 

 

そう人から言われたことがある。

自分ではそんなことは全く思わなかったので、そう言われても納得いかなかった。

それはぼくの人生をどう見たかによるのであって、ぼくがいかにダメな人間で、まずい状況にあり、長い停滞の中にあるのかは、ぼくになってみないとわからない。

そう思ったのだが、必要以上に反発したのは、今のような状態で幸せなんていうことはあってはならない、という気持ちが強く働いたからかもしれない。

 

もっと言えば、ぼくは自分が幸せだと思ってはいけない、と決めているような気がする。

 

過去を振り返るに、ああ自分は幸せだなあと感じたあと、必ずひどい目に合っていて、それは自分の油断、慢心、そういうものが原因なので、簡単に満足してはいけない、幸せだなんて思ってはいけない、そんな風に思いこんでるような気がする。

 

それじゃ幸せなんてものは不要なのかと言えば全然そんなことはなくて、日々の何気ない暮らしの中でたくさんの幸せが本当は満ちあふれていて、そういったものを感じながら生きることが人生を豊かにしてくるのだろう。

 

それはわかっている。

わかっているんだが、やっぱり幸せを身体いっぱいに感じることは、怖い。

そうなってしまうとすぐにぼくは今に満足し、努力をやめ、何か取り返しのつかないことをやらかすだろう。

ぼくが自分のことを幸せだと思うのは、最期の時だけでよろしい。

 

そんな風に思って生きているので、面と向かってあなたは幸せです、と言われると、そんなことは絶対にない、と反射的に拒絶してしまう。

自分が幸せなのかどうかは自分で判断するから結構です、と思ってしまう。

 

言ってしまえば、幸せなんてものは存在しない。

 

人間は年を取り、何もできなくなり、たくさんの人に迷惑をかけ、やがて無様に死を迎えるだけだ。

ぼくらは幸せに向かって生きて努力を続けているのではなく、死に向かって命を消費し続けているだけなのだ。

 

だからこそ、とぼくは思う。

幸せというのはある一定の状態を指すわけでもないし、達成するべき目標でもない。

このくだらない死への行進を、ちょっとはマシなものにしようとする悪あがき、そのプロセスの中にしか、存在しない。

それを少しでも楽しめたなら、まあよしとすればいいのだろう。

 

 

もし、幸せというものが仮にあるのだとしたらの話だが。

人は少しずつ、弱くなっていく。





ちょっとパソコンやスマホの操作がわからないと、若い人よりも、同年代や年上の人のほうがバカにしてくるような気がする。



若い人は、まあちょっと得意げにしているやつもいるけれど、わりと素直に、そして丁寧に教えてくれる。

ところが同年代や年上の人間は露骨にバカにしたり、不快そうな顔をする。

自分ができていることを、年下や同じ年代の人間ができないでいると、なんとなく腹が立つのかもしれない。


しかし、どれだけ努力をしていても、年を取ると、どんどん自分でできることは減っていく。

ぼくなんて、本当にできることが少ない年配の人たちよりは、ずっとなんでもできるほうだと思うけれども、それでもやっぱり、自分のできることなんて、ほんのちょっとだけだなあとよく思う。


ぼくはそのことを昔から知っていたような気もする。

だからこそ、自分の好きなことだけを追求できたらなと思ったのだし、好きなことを仕事にするということは、他の可能性を切り捨てるということだというのもなんとなく覚悟していたように思う。

ぼくは若い頃のほうがずっと謙虚だったのかもしれない。

それが、年を取って、世の中の仕組みについてちょっとは詳しくなって、そこへ首を突っ込むことで多少の経験を得られることがわかって、なんとなく自分はたくさんのことができるような気になってしまっていた。

しかし中年にさしかかって、若い人たちのパワーには勝てず、同年代でもぼくよりもずっと丁寧に一生懸命努力してきた人たちの積み重ねてきたものにも勝てず、自分がたいした人間ではないことに気づく。

そのプロセスにはがっかりしてしまう。


若い頃のぼくは、謙虚だったかもしれないが、しかし自信はあったと思う。

その自信は決して過去に裏付けられたものではなくて、未来を根拠としていた。

自分は、これから好きなことだけを仕事にしようと努力していくから、他のことはあきらめる。

だから、あきらめた色んなものたちのぶんぐらいは、少しは何かができるようになるはずだ。

そのあきらめこそが、自信となっていたように思う。

けれども今は、もう未来がいつ終わるかわからない状態で生きているから、ぼくには自信を持てるリソースはない。


だからといって、ぼくは自分のことを不幸だとは思わない。

短い時間だったが、好きなことを仕事にできる機会があったし、それは仕事にしなくたって続けられることもわかった。

大きな挫折も味わったけれど、それを挫折だと振り返ることぐらいはできるようになった。

ただ、言えることは、人はそうやって人生の中で強くなったり、弱くなったりを繰り返しながら、少しずつ弱くなっていく、ということだ。

だから、誰もかれもが自立して生きていくべきだ、とは思わない。

赤ちゃんやお年寄りだけでなく、自分の力で立つことができると思われている人でも、急に心が弱って立ち上がれなくなることがあるのだ。

あるいは、そう思われていた人でも、ちょっとずつ力を取り戻して、これまでよりはゆっくりしたペースかもしれないけれども、ちょっとずつ前に進むことができるようになったりもする。

そして、どんな人間であっても、最後は何もできなくなっていく。


ぼくはそのことを前提として、生きているだろうか。

今はうまく行かなくても、また調子の良い時がやってきて、なんでもできるようになると、心のどこかで思っていないだろうか。

それよりも、自分が何もできなくなっていくその日まで、そしてこの世から消えるその日まで、命をたっぷりと味わえるような、そんな生き方、あるいは死に方をちゃんとできているだろうか。


別に暗い気持ちではなく、むしろ前向きに考えた結果なんだけれども、そんなことを最近は思う。



#わたしの自立

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まっすぐ線が、引けない。

 

 

 

昔からなんの補助線もないところにまっすぐ線が引けない。

 

 

 

場合によっては、補助線があってもちゃんと引けない。

 

はじめはすーっと引き始めるのだが、すぐに、ぐにぐに、と曲がりだし、そのうちあっちにこっちにと大きくゆがみ、思っていたところとは全然違うところに向かってしまう。

 

定規で線を引くのも苦手だ。

 

どこからどこまで引くのか、というのを確認している時から頭がクラクラするし、実際に引くとなると定規に沿って線を引くだけなのに変なところに力が入って、定規ごとあっちの世界へと旅立ってしまったりする。

 

なぜそんなに線を引くのが苦手なのか、ちゃんと考えたことはないが、むしろなぜ他の人たちはちゃんとまっすぐに線を引くことができるのだろう、とは思う。

 

まっすぐ線を引くには、出発点を明確にし、ゴールを正確に見定め、そこへ向かって迷いなく進む力が必要だ。

 

目標まで進む中でさまざまな困難が待ち受けている。

 

目に見えない紙のデコボコが潜んでいるかもしれないし、つい力が入りすぎて穴が空いてしまう危険だってあるし、実は最初に打ち立てたゴールの位置が間違っている可能性だってある。

 

そんな数々の不安に打ち勝ち、己の信じる道を突き進む、そういう鋼の精神をなぜ誰もが持つことができるのか、不思議で仕方がない。

 

 

ところで、じゃあぼくはどんな線を引くのも苦手なのかというとそんなことはない。

 

ぐにぐにと曲がった線や、あっちに行ったりこっちに行ったりする線や、それがまた元に戻ってくる線を描くのは大好きで、なぜならそうやって線をあっちこっちに迷わせているうちに、本当に自分が進みたい方向がわかってくるからである。

 

この線をただ一本だけ、正しく、そして美しく引く。

 

ぼくにはそれができない。

 

だから、そういうことができるすべての人がうらやましい。

 

しかしできないものはしかたないので、ぼくは何度もあっちに行ったりこっちに行ったりしながら、なんとなくの輪郭を描き、そこからちょっとずつ自分の思いを注入していくしかない。

 

もっといい方法はないのか、とは思うけど、もう人生も後半となると苦手なことに時間をかけているヒマがあったら、できることを磨くほうが、少しはマシなんじゃないかとも思っている。

 

 

どっちみち人生なんて、一発でまっすぐに進めるようなものではないのだし。