結婚指輪を、なくした。

 

 

 

またズボンのポケットの中だ、と思った。

 

 

 

深夜に帰ってくると、所定の位置に戻すのがめんどくさくなって、やってしまうのだ。

 

おまけに引っ越したばかりで結婚指輪だけではなく、色んなもののポジションがちゃんと決まってないので、いつもどおりの生活をスムーズに過ごすのが難しい。

 

早く整理を進めなくちゃなと舌打ちしながら、昨晩はいていたズボンを洗濯カゴから引っ張り出し、ポケットに手を突っ込んだ。

 

ない。

 

あわてて反対側のポケットも尻のポケットも手を突っ込んだが、やっぱりない。

 

全部のポケットを引っ張り出して、ズボンを逆さにして振ったり、洗濯カゴに入った他の洗い物も広げて、最後はカゴをひっくり返して底を叩いたが、何も落ちてこない。

 

這いつくばって洗面所を調べたが見当たらず、仕事カバンの中も全て床にぶちまけたが、ない。

 

もう出勤しないといけない時刻は過ぎている、過ぎているが、このまま発見できずに家を出れば、発見できる可能性がどんどん下がっていくような気がする。

 

あーなんだこんなところにあったのかよ、というあのがっかりした、しかしほっとする感じ、あの感じが今すぐ欲しい、頼む、あの大いなるつまらない、まったくもってがっかりする、しかしほっとする日常を今すぐ返してくれ、誰だかわからないが、今すぐ返してください、お願いします、お願いします。

 

もう家族は仕事や学校に出発してしまって、誰もいない部屋で、ぼくはただそう願いながら、汗だくになって這いずりまわった。

 

午前中の会議をキャンセルして探したが、それでも見つからず、結婚指輪をせずに出社した。

 

野良犬たちの群れに何かのアクシデントで混じってしまったデリケートで貧相な飼い犬の気分だった。

 

飼い犬は、小さなテリトリーでのどうでもいいようなルールを守って、適当にかわいがられて暮らすから良いのであって、それが守れないやつには、その生温い日常の幸せを受け取る資格なんてないのである。

 

結婚指輪という小さな、本当に小さな金属のかたまりを、そんなものはどうでもいいとバカにしてしまうことは簡単だが、そんなものすら管理できずに、ぼくは一体何を守ることができるのだ。

 

午後は、まったく仕事に集中できずに過ごした。

 

あれだけ探し回って、それでも見つからないのは、もう家の中にはないからではないだろうか。

 

ポケットから落ちて外の排水溝に消えていってたら、電車の線路に落ちていってたら、iPhoneと違ってGPSで見つけようもない。

 

広い世界の中で一粒のゴミとしてどこかに転がっている指輪のことを思うと、得意先の言葉も上司や同僚の意見もまったく頭に入ってこなかった。

 

夜になっても家に帰りたくない。

 

すでに考えられる場所はすべて探し回ったので、帰ったところで見つかる感じがしない。

 

しかし自分が安堵していられる場所は家にしかない。

 

飼い犬の哀しみである。

 

今すぐ消えてしまいたい気持ちをこらえながら、もう涼しくなってきて、肌には心地よい風が吹く夜道を足を引きずって帰途に着く。

 

人はなくしてしまうかもしれないものを、なぜわざわざ持つのだろう。

 

結婚指輪、携帯電話、家、車、友人、恋人、そして家族。

 

一度失ったら二度と手に入らない、そんな危険なものをぼくらは当たり前のような手つきで扱い、空気のように思っている。

 

なぜだろう。

 

生きるということが、こんなにもろくて、はかないものだということが、なぜこんなに見えにくいのだろう。

 

帰宅して、ふと目の前に吊るしてあった別のズボンのポケットに手を入れたら、そこに指輪は入っていた。

 

 

決める訓練は、必要だと思う。



他人に判断を押し付けるのは、楽だ。



若い頃から、AとB、そしてできればCも用意して、それを相手に決めてもらえ、という訓練ばかりを受けてきて、それ自体はプレゼンテーションの技術向上に役立ったり、できるだけたくさんの切り口からアイデアを考える良い経験になったのだけれど、しかしぼくはそのせいで、とても大事なことの訓練をやらずに年を取ってしまった。

それは、決める、という訓練だ。

まあ正確に言うと大量にあるアイデアの中からAとBとCとにしぼる、という判断はたくさんしてきた。

してきたけれども、その中でよしこれで行こう!と一つだけを決める、つまりは何を捨てて、何を残して、その方向に一歩を踏み出す、という経験というのが圧倒的に足りないあと思う。

サラリーマンは本当に気楽な稼業だと思ってて、それはおおむね良い意味なんだが、しかしまずいなと思うのは、ぼーっとしていても誰かが決めてくれるところだ。

お客さんにはAとBとCがありますが、どっちがいいですか?と言えば、どれかを決めてくれるか、あるいはどれも決めてもらえないか、いずれにしたって答えをもらえるし、上司にもAとBとCの道があるんですけど、さてどうしたものでしょうと相談すれば、Aに行けとかBに行けとか、あるいはお前オレの話聞いてたのか、Dって言ってただろうと怒られるだけで、やはり自分以外の場所に答えが用意されている。

逆に、勝手に決めること、勝手に判断することは、組織の中では程度によるけれども重罪として扱われるような気がする。

それは組織にとってはしかたがないことで、構成員が各自の勝手な判断で重要な意思決定をしてしまえば大混乱が起こるのは避けられないからだ。

でも、だからといってお互いに、他人に判断を押し付けることばかり繰り返していると、何も自分で決めることができなくなってしまう。

こういう状態に対して、組織がどう対応するべきかはまた別の機会に話すとして、問題はぼくら自身のことだ。

どうやったら、物事を自分で決める力をつけることができるのだろう。


ひとつは、自分以外の人のことについても決める機会を持つことだと思う。

人は自分だけのことなら割と簡単に決めることができる。

その結果失敗しても、自分だけが痛手を受けるだけだからだ。

本当に判断するのが難しいのは、他人と一緒にいるときに、その人の運命も背負った上で、何かを決めるときだ。

お互いに失敗した場合の痛手を引き受けられるか、相手は自分の選択に納得してくれるか、そして最終的にはその決定に自分が責任を持てるか。

こういうしんどい経験をできるだけたくさんやっていくことが、ぼくにはもっと必要だなあと思う。


もちろんそんな経験ばかりをあまりにも繰り返していたら命がいくらあっても足りない。

たまには他人に判断してもらえたほうが楽だ。

だけど、その場合は、自分の命をその人に預けているのだ、というのは認識しておきたい。

そして、それをお互いに分かったうえで、同じ選択をするということの難しさと面白さを噛みしめて生きたいなあと最近は思う。

アホで、ええんや。





直感で、生きている。



なのにそれを隠そうとして、妙に理屈っぽく話したり、もっともらしい根拠を作ったりしていたのだけど、もうそういうのをやめたいなあと思う。

もともとぼくの持ち味というのは、めちゃめちゃ適当でアホなのに、たまにまともなことを言う、というところにあるのに、どうも年を取って、逆転してしまっていたようで、きっちりまじめに見えるのに、割と抜けている、みたいなまあまあアカンほうのギャップが生まれてしまっている。

さて一体どこでどうなって、そういうことになってしまったのかよくわからないけれど、この際、経緯はどうでもよくて、さあもうこんなクソ真面目なおじさんのフリした着ぐるみはさっさと脱ぎ捨てて、アホなおっさんで生きていこう、というのが今日の言いたいことの主旨である。

そもそも、アホなおっさんのほうが色々といいことがあるのだ。

まずは、自分がアホなことをちゃんと周りに伝えておけば、もっと賢い人の支援を得ることができる。

あのおっさんはたぶんあんまりわかってないから、ちゃんとアドバイスしてやらないとな、と思ってもらえる。

それから、相手が心を開いてくれる。

お前はほんまアホやなあと言いながら、他の人には言わないような本音をもらしてくれたりする。

そして、たまーにちょっとだけまともなことを言えば、あれ、意外とちゃんとしてるじゃないか、と思ってもらえる。

しかし本当に自分のアホを肯定することが大事な理由は、自分の知らないことに対して無防備で飛び込むことができることだと思う。

変に賢くいようとすると、知らないことに出会っても、ちゃんと勉強しないといけないから今日はやめておこう、といってずっと取り組まないままでいることが多い。

ぼくはそうやって、ずっと自分の知らないことを知らないままで放置してきて、目の前に好奇心を満たしてくれそうな面白い宝物が転がっていても、ずっと目をふさいできたように思う。

だけど、もういいじゃないか。

それが一体何かなんてよくわからなくたって、とりあえず触ってみたらいいじゃないか、足を踏み入れてみたらいいじゃないか、そして飛び込んでみてもいいじゃないか。

どうせ自分はアホなのだ。

アホは経験してみなくちゃ理解できない。

自分の手で触れて、固いかやわらかいか、痛いか気持ちいいか、熱いか寒いか、そしてつまらないか面白いか、自分の直感でたっぷりと味わえばいいのだ。

アホ、万歳。

アホで、ええんや。

ああよかった。