ただ眺めているだけで、満たされるものは。

 

 

 

グルメ番組というやつが嫌いで、赤の他人がうまそうに食べているのを、ただ画面ごしに指をくわえて見るだけの何がうれしいんだ、こっちは一切食えるわけもないのに他人が自分の欲望を満たすのを見せつけられて面白いはずがない。

 

 

 

しかし年を取って自分のできることが減ってくると、ただ眺めているだけで何か自分の気持ちが満たされていくなあと感じる場面が増えた気がする。

 

例えば小さい子どもが夢中になって遊んるのを見るのは、それが自分の子どもでなくても、なんだかほっと気持ちが落ち着くし、ずっと見ていたいなあという気持ちになる。

 

あるいは人が集まって楽しそうにお祭りや催しの準備をしているのを見るのもいい。

彼らはいつまでも同じ場所にダラダラととどまらず、一時的に集まっているだけ、というところもよい。

 

それから自分のよくわからない分野について専門家同士が淡々と、しかし静かな情熱を秘めて打ち合わせしているのを見るのも好きだ。

 

グルメ番組は嫌いだと言ったが、グルメ番組を見てうれしそうにワーワー言っている妻を見るのは好きだ。

 

結局、この世の中で自分のできることなんてほとんどなくて、自分なんかいなくても何の問題もなく世界は回っていて、それをただ眺めていられる時間が好きなのかもしれない。

 

なんだか変な話ではあるけれども。

足るを知るか、忘れるか。


現状に満足をしてしまうと、そこから先に進まなくなってしまう。

しかし、ずっと満足できなければ、疲れてしまって先に進むためのパワーが出てこない。



バランスが大事だと言われればそうなのだけれど、それでも敢えてどっちが重要かと言えば、ぼくは現状に満足したくないと思う。

特に、会社で仕事をしていると次々と新しい問題が起きて、それに対応しているだけで十分に働いた気になるし、実際に働いている。

しかし、それに満足していても何も前に進んではいない。

自分のやりたいことを仕事の中で実行していくためには、そこからさらに一歩踏み込まないと何も起こらない。

あるいは普段の生活だってそうで、基本的にぼくらは生きているだけで次から次へとやらないといけないことが発生する。

いくら食べてもお腹は空くし、いくら寝ても眠くなるし、いくら掃除しても汚れは出てくる。

ところがその毎日の用事を繰り返しているだけでは何にも新しい楽しみは作れない。

ぼーっとしていたら夏休みの計画もできない。


そう考えると、一日という時間を、やらないといけないことだけで一杯になるように準備するべきではない。

30分でも1時間でも、さらに一歩進むための時間をちゃんと確保しないといけない。

そして、それをちゃんと手帳なりスケジュールに書き込んで、自分のために予約しなければいけない。


そんな当たり前のことを今さらだが、考えている。

自分のために時間を使う。

その必要性をいま、強く感じている。


だからこそ、自分のために時間を使ってくれている人には心から感謝したいとも思う。

嫌いな仕事を、好きな仕事へと変える。



ぼくの持論は「人間は好きなことを仕事にするべきだ」であって、それは今も何も変わらない。



しかしその好きなことというのは当然ながら辛いこともあるし、むしろ好きなことだからこそ、余計に苦しい経験や悲しい思いもすることがある。

ずっと憧れていた仕事をいざ始めてみたら、実はとんでもなく厳しい世界だったり、そこでの人間関係もひどくギスギスしていたり、あるいは古い価値観が居座っていたりと、とにかくガッカリして、すっかり好きではなくなってしまうこともあるだろう。

「好き」は簡単に「嫌い」になる。

だからこそよく、本当に好きなものを仕事にはしたくない、という言説を耳にする。

しかし、ここは忘れられがちなのだが、実は「好き」が「嫌い」になりやすいのと同じぐらい、「嫌い」も「好き」になりやすいのである。


「嫌い」はチャンスである。

まず、あなたがそれを「嫌い」な場合、他の多くの人も「嫌い」である可能性が高い。

であれば、自分がちょっとでも「嫌い」でなくなれば、ほかの人たちよりもずっと貴重な、価値のある仕事ができるようになる。

また、初めから「好き」な仕事の場合は、その仕事の中身をすんなりと受け入れてしまう。

これは実は危険なことで、実際はそこには色んな問題があり、改善していかないといけないわけだが、しかし「好き」で選んだ仕事だから・・・というわけのわからない忖度をして何もかもを受け入れてしまい、問題を抱えたまま苦しんでしまうことが多い。

「嫌い」だからこそ、その嫌なところ、面倒なところ、不都合なところに気づくことができる。
誰にも忖度することなく、おかしな点にメスを入れ、少しでもマシな仕事へと変えていくことができる。

あるいは「好き」なものというのは、それ以上「好き」になるのはなかなか難しいし、周りにもっとその仕事を「好き」な人がたくさんいるので気後れしてしまったりするが、「嫌い」な仕事というのは、ちょっとだけ頑張ったり工夫したりするだけで、かなりマシになる場合が多いので、けっこう簡単に「好き」になりやすいのだ。

ぼくは以前、みんなで集まって会議をするのが大嫌いで、なぜなら会議の場で、本質的な意見よりも、自分たちの立場を守るための論理をあの手この手で通そうとする人が多かったからだ。

それで、ぼくは長年、会議が嫌いで嫌いで仕方なくて、どうやったら少しでもマシな、誰もが積極的に自分たちのアイデアを出し合える会議になるのかと、あの手この手を工夫し続けて、結果的に会議自体が大好きになったし、今では話がまとまらなさそうな会議を取り仕切るためだけに呼ばれたりすることもある。

それから「嫌い」なものだからこそ、それを人にうまく教えることができる場合もある。

それが「嫌い」な理由を誰よりも知っているからこそ、それを克服するポイントがわかる。


もっといえば、ぼくらは「嫌い」を「好き」にするために生まれてきたと言ってもいいと思う。

はじめから誰もが「好き」なものなんて、つまらない。

誰もが嫌がることや、敬遠するようなものを、自分らしく取り組んで「好き」に変えることができれば、それこそが本当の「好き」であって、天職なんだと思う。

ぼくが思う「好き」な仕事とはそういう意味である。


以上は、id:fujiponさんの記事を読んで。