自分だけの物語は、なぜ必要か。



はたらく女性の深呼吸マガジン「りっすん」に、自分が共働きの生活を送っている中で感じていることを寄稿した。
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ぼくが関心があるのは共働きそのものというよりも、それぞれの事情があって、これまでの自分の生活や役割や考え方を変えなくてはいけなくなった人たちが、どのようなことについては変えることができ、どのようなことについては変えることができないのか、そしてそれをどう受け入れていくのか、ということだ。

ぼくはこのブログを書き始めたときに、小さいけれども自分にとっては大きな変化の中で苦しんでいて、おそらくこれから変わっていかないといけないのだろうけれども、しかしその中で「変わらない自分」を見つけたいと思っていた。

この辺はとても難しい話で、実際は「変わらない自分」なんていうしっかりとしたものなんて存在しなくて、それは「変わり続ける環境」とワンセットになってしまっている部分が多い。

文章を書く自分というのは変わらない、と思っていても、いざコピーライターという仕事をしなくなると、意外とその意味は薄れてしまったり、あるいは会社なんてものは自分の大事な部分に影響を与えたりはしない、と思っていても、じわじわと価値観に浸透していったりしているのだ。

となると、自分の中で完全に変わらないものなんて実は存在しなくて、唯一あるとしたらそれは「これは自分の人生であり、その主役は自分なのだ」という認識ぐらいなのだ。

ところが、組織に属していたり、他者の価値観に合わせる訓練ばかりをしていると、その認識すら失われてしまう場合があって、そりゃまあ世間の大多数の人は物語の主役ではないのだが、しかし自分自身の物語というものが存在して、その主役は自分なのだという認識を持つことは誰にも邪魔されるべきではない。

しかしこの世の中には、強力な物語がいくつもあって、お金を持っている人が一番偉いのですよとか、家族のことなど顧みずに日夜懸命に働くことが結果的には一番家族のためになるのですよとか、会社に身も心も捧げないと出世なんてできませんよとか、それぞれのストーリーの中で、魅力的な主人公たちを登場させ、その中で立派な脇役になるように、もしその脇役をしっかりと続けていたら、ひょっとしたらあなたもいつか主人公になれるかもしれませんよとささやき続けられ、自分自身の物語への関心や執着を奪われていくのである。

ぼくは別にそういった大きな物語たちを否定するつもりもないし、そのいくつもを自分自身も受け入れて暮らしているけれども、しかしそれとはまったく別の、自分だけの小さな、しかしこの世界に一つしかない物語を失いたいとは思わない。

もちろん、夫婦であってもそれぞれ全然違う物語を持っているわけだから、そのまま共有できるはずものなく、相手のこの下りが嫌だとか、この言い回しが気に入らないとか、そういうやりとりは毎日あるし、しかしそうやって、その夫婦だけの物語がまた生まれていくのである。

だから、ぼくは自分と同じように、環境の変化や生活の変化や価値観の変化にさらされて、自分が変わるべきなのか、それとも周りの人々が変わるのを待つべきなのか、あるいは目をつぶって耳をふさいで何事も起きていないと思い込んで暮らしていくべきなのかと迷っている人がいたら、誰よりも先に自分が変わるべきだと言いたい。

誰よりも先にペンを手にして、誰よりも先に自分だけの物語の続きを書き始めるべきなのだ。

誰かよくわからぬ他人が書く、美しく壮大で、しかしぼくらの存在なんていくらでも代わりのきく感動巨編なんかを無理やり読まされるのではなく、下手でも退屈でもいいから、自分が主役として登場し、やがて消えゆくその日までをどのように生きていくのか、それを強い筆圧でしっかりと書き記していくほうを選ぶべきなのだ。



だからぼくはブログを書き続けるのである。

好きなことがない人は、どうやって好きを見つければいいのか。



みんな努力や運にシビアだ - 意味をあたえる



fktackさん(id:fktack)の言ってることはそのとおりだと思って、ぼくは好きなことを仕事にするのが生存戦略には有効だと書いたけれども、本当に言いたかったのは、その好きなことがはじめからある人はいいけれど、好きなことがない人は、それをわざわざ見つけたり作ったりしなきゃいけない大変な時代が来ちゃってる、ということだった気がしてきた。



それが良いことなのか悪いことなのかわからないし、あるいはひどく極端でマッチョな考え方だとも思うのだけど、しかしもしそうなのだとしたら、好きなことがない人は、どうやって好きを見つけていくのだろう。

ひとつ思うのは、好きという言葉が邪魔をしてしまっていて先の話に進みにくいのだけれども、怒りとか憤りとか恨みとかのネガティブな出発点の場合もあっていい気がする。

たとえば何か文章を書くのが好きな人の場合、もちろん文章を書くこと自体が好きで好きでたまらなくて、それをしていればあとは何もいらない、なんて人もいるのだろうけれども、そもそも何か腹に据えかねていることとか、自分の中だけで消化しきれないモヤモヤしたことがあって、それを解消しようとする方法がわからないから書いている、そういう場合も多いのじゃないだろうか、少なくともぼくはそうである。

あるいは、それをやりたい、ではなく、やらなければならない、と思い始めたら本当の好きのはじまり、なんてことも思う。

コピーライター時代を振り返ると、文章書くだけの仕事なんてほとんど存在しなくて、日中はひたすら雑務ばかりをしていて、たまに文章を書くチャンスが来たとしてもびっくりするくらい退屈な仕事だったり、まったく自由度のないものだったりするのだけれども、それでもなんとか面白いものにしようとあれこれ粘るわけだが、別に誰も面白いものなんて求めていないし、誰もほめてくれないし、そもそもそんなことしたって給料は変わらないし、むしろ進んで雑務ばかりを引き受けている人のほうが最終的には偉くなったりする。

それでも何人かの人間は、やっとのことで日中の文章とは何の関係もない大量の業務を終わらせて、机の上をきれいにしたら、さてやるかと白い紙を出してきて、退屈で自由度のないお題に向かって、ちょっとでも良い文章は書けないものかとうんうん考え始めるのである。

もうそうなってくると、もはや自分がやっていることは好きでやっていることなのか、それとも何か得体の知れない何かに突き動かされて無理やりやらされているだけなのか、もうわけがわからなくなっている。

ここまで書いていて思ったのだが、どうせ人生なんてものは苦しいことの連続であって、しかしその苦しみ方を自分で選ぶのか、誰か別の人に選んでもらうのか、その違いだけのようにも思う。

しかしぼくは人生の苦しみを、その誰か別の人のせいにして生きていくのは耐えられないし、ああこれは自分で選んだ苦しさなのだなあと受け止めながら生きていきたいと思う。

さてそんなことを書いていると余計に、好きを見つけるのはやっぱり大変なことのような気がしてきたけど、もっと簡単に好きと出会う方法もあるかもしれない。

一番手っ取り早いのは、色んな人に会うことだろう。

普段は会うことのないような人と会って話し、自分の話を聞いてもらったり、相手の考えていることを聞くことで、これまでの頭の中には全くなかった世界が見えてくることがある。

正確に言えば、その世界は全く存在しなかったわけではなく、概念としては知っていたことだったりするが、その世界に実際に自分自身が足を踏み入れる、ということを想像したことがなかったものを、あ、ひょっとしてこれオレでも挑戦できることなのかもしれない、とほんの一瞬でも思うことができるようになる、ということだ。

この現象は、好きと出会う、というよりも、好きに気づく、というものに近いと思っていて、もともと自分の中にはぼんやりながらもしかしどっしりと好きはあるのだが、その好きをこの現実世界においてどう生かすかというアイデアはなかなか思いつかないものだ。

それが、全然違う世界で、自分と全然違うことに取り組んでいる人と出会うことで、なんだ、こんな方法もあるのか、と気づく、そういう現象だ。


ここまで書いておいて、じゃあお前の好きは何なんだと言われそうだが、おそらくぼくの根っこにある好きは、一見解けそうにもない難問を自分で勝手に見つけてきてウンウンうなったり、ああでもないこうでもないと工夫するところにあるようで、文章とか表現とかファシリテーションなんてのはそのための手段でしかないように思う。

難問に取り組むというとずいぶんかっこいい言い方だが、ここは「自分で勝手に見つけてきて」というところがミソで、つまり自分の解きたい問題を自分で見つけてこれることにぼくは自由を見い出している。

自由という言葉が出てきたので、そろそろ打ち止めだなと思っていて、さっき苦しいとか苦しくないとかいう話をしたけれども、結局はどんな苦しみをこの人生の中で味わうか、それを自分で選ぶことができる、それが一番の自由だと思っていて、自分が一番大事にしていることのようにも思う。

好きなことを仕事にしなければいけない、理由。

 

 

 

すべての人は好きなことを仕事にするべきだと思っている。

 

 

理由は簡単で、そうじゃないと自分の身を自分で守ることができないからだ。

 

好きでもない仕事を続けていれば必ずミスをしたり、生産性を落としたり、思考停止に陥って、他の、今は大して才能やセンスはないけれど、しかしその仕事が好きでたまらない人たちの参入を許し、駆逐され、退場しなければいけなくなるからだ。

 

好き、というとひどくゆるふわな概念のようだけれども、しかしそれだけがこの不安定で、見通しが立たない、みんなが笑顔の下でどつき合っている世界の中で、頼りにできる唯一の武器なのだ。

 

好きだからこそ、ミスしてたまるかと集中力が高まり、好きだからこそ、もうちょっとマシな仕事にはならんかと工夫ができ、好きだからこそ、自分の子どもかのようにその仕事を大事に育てようとする。

 

それをやりがい搾取というのは間違っていて、本当のやりがいというのは、それを自分で決め、自分で取り組んだ先にしか得られないものだ。

 

もっと言えば、ぼくの言ってる好きは生半可な好きじゃなくて、あとの色んなものは置いといて、あるいは家族とか命とかそういう当たり前の話は別として、しかしやっぱりこれだけは譲れない、そういう強烈な好き、あるいは業とか執着とかそういう、忘れたくても忘れられない、捨てたくても捨てられないもののことだ。

 

だからこそ他の人が思いもよらない執念のような成果がもたらされるのだ。

 

きれいごとなんかいらない。

 

好きを武器に戦い、殴り合い、出しぬきあい、奪いあおう。

 

だが負けたって大丈夫、この世界は、また新たな好きを支えにして這い上がってくる人間に、びっくりするぐらい寛容だ。

 

なぜか?

 

簡単だ。

 

みんな期待しているのだ。

 

この世界がたくさんの人の好きで満たされる、ワクワクしたものになることを。