好きなことを仕事にしなければいけない、理由。

 

 

 

すべての人は好きなことを仕事にするべきだと思っている。

 

 

理由は簡単で、そうじゃないと自分の身を自分で守ることができないからだ。

 

好きでもない仕事を続けていれば必ずミスをしたり、生産性を落としたり、思考停止に陥って、他の、今は大して才能やセンスはないけれど、しかしその仕事が好きでたまらない人たちの参入を許し、駆逐され、退場しなければいけなくなるからだ。

 

好き、というとひどくゆるふわな概念のようだけれども、しかしそれだけがこの不安定で、見通しが立たない、みんなが笑顔の下でどつき合っている世界の中で、頼りにできる唯一の武器なのだ。

 

好きだからこそ、ミスしてたまるかと集中力が高まり、好きだからこそ、もうちょっとマシな仕事にはならんかと工夫ができ、好きだからこそ、自分の子どもかのようにその仕事を大事に育てようとする。

 

それをやりがい搾取というのは間違っていて、本当のやりがいというのは、それを自分で決め、自分で取り組んだ先にしか得られないものだ。

 

もっと言えば、ぼくの言ってる好きは生半可な好きじゃなくて、あとの色んなものは置いといて、あるいは家族とか命とかそういう当たり前の話は別として、しかしやっぱりこれだけは譲れない、そういう強烈な好き、あるいは業とか執着とかそういう、忘れたくても忘れられない、捨てたくても捨てられないもののことだ。

 

だからこそ他の人が思いもよらない執念のような成果がもたらされるのだ。

 

きれいごとなんかいらない。

 

好きを武器に戦い、殴り合い、出しぬきあい、奪いあおう。

 

だが負けたって大丈夫、この世界は、また新たな好きを支えにして這い上がってくる人間に、びっくりするぐらい寛容だ。

 

なぜか?

 

簡単だ。

 

みんな期待しているのだ。

 

この世界がたくさんの人の好きで満たされる、ワクワクしたものになることを。

誰かのせいに、したくない。



正直に言うと、もうそろそろぼくらは、失敗を特定の誰かのせいにするのはやめたほうがいいと、とても強く思っている。



その失敗をしたのが誰なのかなんてどうでもよくて、その原因を見つけて修正することが大事なのだ。

人は必ず失敗をする。

人工知能が頼りにされる時代においては、それが人が人である唯一の意味であって、価値ですらある。

なのに誰かが失敗するたびに「最悪だ!」「お前の責任だ!」「辞めろ!」と言っていては、誰も新しいことに挑戦したいとは思わなくなる。

誰かが失敗したときの正しい反応は「うん、よく失敗した!」「ナイスエラー!」「さあ何が原因だ?」なのだ。


いやいやそんなことじゃ誰も責任を取らなくなって、世の中が回らなくなる、という人もいるかもしれないけど、それにもぼくは懐疑的である。

大事なのは責任感だけであって、責任なんてものはいらないからだ。

たとえば、目の前で誰かが急に倒れたとき、それを目にしたぼくにはその人を助ける責任はない、ないけれども同じ人間として無視するのはちょっとどうかと思う、その気持ちがあるのかないのか、それだけが、その人の行動を決める唯一のカギなのだ。

それをいちいち、はいあなたにはこういう責任があります、そしてそちらのあなたにはこういった責任があります、というように決めてしまうから、その枠からはみ出すようなことは誰もしなくなる。

枠にはめられるのは、とても楽なことなのである。

そうしてぼくらは何のチャレンジもしなくなり、見知らぬ人に救いの手を差し伸べたりもしなくなる。

きっとどこかに、自分以外に、何か別の責任という枠をあてがわれた誰かがいて、そいつがなんとかしてくるだろうと思っているのである。


ぼくは決して責任感という言葉が好きでもないし、その概念もなんだかとても重苦しい感じがして仲良くなれそうにはないけれども、その本質は「まずい、このことについて、自分がなんとかしないと事態は良くならない」という気づきのようなものだと思う。

そして、そう気づいてしまった人は、もうそれに取り組むしか選択肢がないのである。

そうやって取り組まざるを得なくなった人が何か失敗したとして、果たしてその人は「最悪だ!」「お前の責任だ!」「辞めろ!」と糾弾されるべきなのだろうか。

そもそも、その人に責任はあるのだろうか。


この世に生きているぼくらは基本的に全員が、多かれ少なかれ何かを間違っている。

完全に正しい人なんて一人もいない。

誰もが失敗するのだ。

それを全力で否定し、糾弾し、溜飲を下げる人というのは、人間という存在を否定し、人工知能という神様を崇め、完全な思考停止を望んでいる人なんじゃないかと思うし、ぼくはそういう人間にはなりたくない。

一体これは自分にしかできないことなのか、それとも他の人のほうがもっとうまくやれるのか、あるいは本当にどうにもならないことなのか、うじうじ、もやもやと悩み、何度も失敗しながら生きていくほうを選びたいと思う。

四月が、苦手な理由。

 

 

 

 

四月は、一番苦手な月だ。

 

 

いい思い出がほとんどない。

 

入学、進級、入社、新年度、だいたい張り切りすぎて早々に息切れしてきて、何かを失敗する。

それらを振り返ってみるに、ぼくは順応性が決して高いほうではなく、しかし無理に順応しようとするせいで、悪い結果を招くケースが多いのかもしれない。

学級委員に一番乗りで手を上げたり、勝手にチームを作ろうとしたり、難しい課題に応募したりするのだが、だいたいうまくいかず、特別に仲のいい友だちもできず、しょんぼりと連休を過ごし、だいぶ時間が経ってから他の、ぼくが知らないうちに着実に、堅実に育っていたコミュニティの中に混ぜてもらい、ほっと息をつくのである。

四月というのはそういう自分の苦手な部分を強く意識させられる、辛い時期だ。

 

ぼくはもともと、さあみんなで一斉にスタートです!ということ自体が苦手で、なんでみんなで一緒にスタートを切らなきゃいけないのだ、それぞれのペースがあるじゃないかと思う。

五月過ぎてからじゃないと活動的になれない人もいるし、暑くなってこないと調子が出てこない人もいるし、逆に寒い時期のほうが頑張れる人もいる。

あるいは個人的なトラブルがあって今すぐ立ち上がれない場合もよくある。

人間はそういう時に支え合えるように、わざわざ集まって暮らしているのである。

経済効果を最大化するためだけに、毎朝鉄の箱に押し込められて圧死しそうになりながら通勤しているわけではない。

 

多様性というけれども、それは目に見える違いだけの話ではなくて、人はみんな違っている。

その日の体調も、気分も、予定も、家庭の事情も、好きな食べ物も、嫌いな音楽も、楽しいと思える時間の過ごし方も、すべて違うのだ。

それを無理やり横一列に並べてさあ一斉にスタートです!とやられることに気持ち悪さを感じるのである。

 

もちろんそうしなきゃ始まらないこともあるし、当人たちが納得の上、あるいは楽しみにしている場合もあるだろうから、なんでも反対だというつもりはない。

ただ、絶対にみんなと同じタイミングで同じ姿勢で同じスタートを切らなきゃいけない、なんてのは受け入れづらいし、とても疲れる。

なんだかノラない時は、無理に走り出さなくてもいい。

たとえ周りの人が全速力で走り始めたとしても、焦らずに自分のペースを作っていけばいい。

 

残念ながら、ぼくらの人生はそんな一瞬のうちに全てが決まってしまうような作りにはなっていないのだから。

たいていの場合は。