無縁な人生の、終わり。



若い頃というのは、何物にも縛られず、自分の意志で行動し、一緒にいたい人たちと一緒にいればいいし、行きたいところに行けばいい、働きたい職場で働ければいい、もし気に入らない人がいたら二度と会わなければいいし、自分の居場所が気に入らなければまた別のところに行くだけだし、仕事が気に入らなければ転職するだけの話だ、という感覚があった。

人にしても場所にしても仕事にしても、自分が好きな時につながり、好きなときにその縁を切ってしまえる、その「無縁さ」が気楽で、自由で、心地良いと思っていた。



長く生きて、それなりに失いたくないものが増えていき、自分ができることも少しずつ減っていって、老いや死の背中もぼんやりとだが見えてくる年になると、自分は無縁どころか、たくさんの縁にすがって生きているし、その中で無理に我慢したり文句を言ったりしながら、できるだけそれらの縁を大事にしようとしている気がする。

そうなってくると、ぼくは自分と縁のある人、縁のある場所、縁のある職場に対して、ただ色んなものを受け取るだけでなく、より良い関係性へと変えていくために能動的に働きかけたいと思うようになっていく。

これまでは自分にしか興味がなく、それ以外のことについては無縁でいたほうが気楽だと思っていたぼくが、少しずつ自分以外への興味を持つようになる。

多くの人は、もっと若いうちにそのことに気づき、もっと早く自分以外のものを大事にし始めるのだろう。

ぼくはどうも長い間モヤモヤと自分のことばかり考えていて、自分の未来ばかり案じていて、自分の幸せばかりを願っていたのである。


もちろん、そのこと自体は大きく変わらないようにも思う。

自分が幸せでいるためには、自分以外の人、場所、職場、そして世の中もできるだけ機嫌の良い状態になっていてもらったほうがよく、むしろそういう状態になっておいてもらうために頭を使ったほうが、ぼく自身が楽しいと思える、結局スタート地点は変わっていない。

だけど、人生を半周してきて気づいたのは、なんだ自分はまだまだいろんなことを考えられるじゃないか、家族や友人のこと、住んでいる地域のこと、働いている職場のこと、そういった、自分自身のこだわりや夢やプライドなどという小さいスケールの遊び場よりももっと面白そうな世界が自分のすぐそばに広がっているんだということだ。

最近、ぼくはおかしいなと思うことがあって、それは自分の住んでいる地域の問題に意見を言ったり、アイデアを提示できる人は、時間に余裕のある人だけだということだ。

そういう活動はたいてい平日の昼間に開かれるから、日中仕事で忙しい人は参加できない。

結局、忙しい人の意見はまったく反映されず、時間にゆとりのある人のためだけの活動ばかりが優先されるようになる。

今の時代、インターネットをうまく使えば忙しい人だって参加する方法はあるのに、だ。

たとえば、ブログの仕組みを使えばもっと多くの人の意見を聞いたり、協議したりすることができるかもしれない。

というようなことを考えるようになったのは本当に最近の話である。

だけどなんとなく、どうもぼくは「無縁さ」を大事にしてきた人生とは、少しずつ無縁になってきているなあと思う。


それが良いことか悪いことかなど、さっぱりわからないが。

好きな、大人。



シロクマ先生(id:p_shirokuma)の『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(熊代亨,2018,イースト・プレス)を拝読した。

ふた回りほど年上の上司や先輩を眺めていて気付くのですが、年上の身体は少しずつ衰えていて、人生を軌道修正するための時間やバイタリティもだんだん少なくなっているのがみてとれます。もし、彼らが彼ら自身で敷いた人生のレールから逸れたくなっても、小さな軌道修正をかけるぐらいがせいぜいでしょう。

それほどまでに変更の余地がなくなり、自分が積み重ねてきた歴史と向き合わなければならない身の上を生きているにも関わらず、すねることもなく、粛々と毎日を生きているー大成功した人、恵まれた人だけがそうしているのではなく、一敗地に塗れた人、恵まれない人のほとんどもそうしています。内心はともかく、少なくとも表向きとしては、人生の諸先輩がたの大半は自分の人生を受け止めながら、ちゃんと生き続けているのです。


そこで、ぼくの好きなおっさんの特徴を挙げてみる


・基本的にあまり姿を見かけない

・必要なときにだけ、いつのまにか、いる

・けっこうしゃべっているはずだが、なぜかあまりおしゃべりな印象がない

・一人でいることが平気

・めちゃめちゃ平気

・いくらでも時間をつぶすことができる

・いい感じの喫茶店を知っている

スターバックスにはあまり行かない

・自分でいちいち「もう老人だから」「おっさんだから」とか言わない

・そんなにグルメじゃない

・でもひそかにおいしいものを知っている

・判を押したように同じものばっかり食べる

・意外と甘いものも好き

・気配を消すぐらいの静かさで雑用をする

・なので雑用をしているのも気づかれにくい

・実用的な言葉を使う

・ゆっくりしゃべる

・道を良く知っている

・基本的にエリつきのシャツを着ている

・Tシャツは全然似合わない

・一年に一度ぐらいの頻度で流行りの言葉を言う

・実は人に教えるのがうまい

・子どもにエラそうにしない

・大声で自慢しない

・異様にへりくだったりしない

・人の手柄を横取りしたりしない

・しかしたまに悪だくみもする

・その悪だくみはかなり精度が高いのでほとんど失敗しない

・決していい人ではない

・そもそも誰にでもいい顔するような人ではない

・敵もけっこういる

・しかしそ知らぬ顔でいる

・体力はあまりない

・夜はすぐに眠くなる

・朝はいつのまにか起きてコーヒーを飲んでいる

・意外と本を読む

・意外とよく笑う

・意外と面白いことも言う

・しかし基本的にはただのおっさん

・基本的にはただのおっさん

・ただのおっさん


「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

君のことは、全然心配していない。


先日、昔お世話になった人が定年退職することになって、挨拶に行ったら、ところでお前はいったいどっちの道に行くんやと言われて答えに困った。



どっちの道、というのは表現者としての道と、それをサポートする道、という意味で言ってるのだが、実はもう自分はどちらの道にも関心がなくなっていて、だがそれを説明するのが面倒だったし、もっと言えばその人の頭の中にある道の姿と、ぼくの頭の中にあるそれが、十数年を経て、かなり違ったものになっているという確信があったのだ。

それで、ううんまあなんでもいいんです、というとすごくがっかりした顔をされたので、もっといい答え方があったのかもな、と少し後悔した。

その人はぼくのことを未だに心配してくれているのだろうし、善意で言ってくれているのはわかるが、もうぼくはぼくなりの細々とした道を歩き始めていて、彼らが、そして過去のぼくが、これまで大事にしてきたものとは決別しているということを伝えればよかったな、とも思った。

だが、もしそのことを伝えてしまうと、その人のこれまでの人生を否定する言い方になってしまうようにも思って、余計にごにょごにょとした返事になってしまったようにも思うが、それは傲慢というものかもしれない。


ところで、ぼくにはもう一人、とてもお世話になった人がいて、その人も少し前に退職したのだが、彼はぼくに、君のことは全然心配していない、と言ってくれた。

君は自分のやり方で自分の仕事を作れる人だから全然心配していない、どうせまた何か新しいことを見つけて取り組んでるのだろう、と言ってもらって、ぼくはひどく安心した。

その人は、いつもぼくの良いところを見つけてくれて、それを引き出すのがとても上手だった。

会社では一匹狼だが、業界では有名人、いわゆるスタークリエイターで、企画にとても厳しい。

彼に気に入られると賞を獲れるような大きなチャンスを得られるので、多くの若手がおべっかを使って取り入ろうとしていたが、良いアイデアでなければ絶対に採用しない人だった。

だから、彼がぼくの企画をよく採用してくれるのが心からうれしかった。

また、あまり言葉数の多い人ではないが、ぼくの企画の良いところとダメなところを的確に言ってくれて、次に取り組むべきことを上手にほのめかしてくれた。

ウマが合う、といえばそれだけなのかもしれないが、それ以上に、彼はそうやって他人のやる気や能力を伸ばすことがとてもうまい人なのだろう。

表現者の道をあきらめてから、ぼくがあれこれ悩んでいたこともおそらく気づいていて、その上で、君のことは全然心配していない、と言ってくれたのだろう。

思い起こせば、彼はいつもぼくが何かを望んでいるときに手を差し伸べてくれた。

それは、彼自身が、強い望みやこだわりを持って生きてきたからかもしれない。

だからこそ、ぼくに「スタークリエイターになる道をあきらめるな」なんてことは言わなかった。

自分の望みを押し付けるのではなく、ぼくの今の望みが叶うように、応援してくれたのだろう。

君は表現者の道を降りたとしても、何かを目指して迷いながらでも進んでいける人間だ、だから全然心配していない、そう鼓舞してくれたのだろう。


ぼくもいつか、誰かに言っていたいものだ。

君のことは、全然心配していない。

かっちょいいなあ。