手元に意識を、取り戻す。



情報があふれ、遠い存在の話がまるで目の前で起きているように見え、おまけに直接クレームを入れたり同情コメントを寄せたりできるから、まるで自分も同じ位置にいるような錯覚におちいり、なのに具体的には何もできなくて不全感に満ち、自分の小ささにがっかりし続ける。



そうしている間じゅう、ぼくの意識は四方八方に細切れになって散っていき、判断力が弱り、価値観が揺れ続け、ワクワクするアイデアはまったく生まれない。

それがいけないことなのではない。

そうやって遠い向こうに思いを馳せ、憧れる対象を求め、変われるきっかけを探す時期も、定期的に必要なのだ。

だけど放浪の旅はどこかで一度終わらせなきゃいけない。

ゆっくりと深呼吸をして、あちらこちらに散らばった意識をぎゅっと集め、場合によったらそれなりに時間をかけてじっくりと呼び戻し、自分の手の届く範囲に取り戻さなきゃいけない。

その手はあまりに小さく、力は弱く、丈夫でもなく、ちょっとの仕事にもひどく時間がかかり、一度につながれる人は一人か二人ぐらいで、たいした影響も与えられない。

それでも、自由に動かせて、早く反応できて、人をやさしく抱きしめることができて、妄想をメモにできて、地図を握りしめることができて、新しい世界につながっている扉を力をこめて押すことができる。

あっちこっちへと散らばってしまっている意識たち、憧れ、承認欲求、好奇心、冒険心、勇気、あるいは慎重さ、臆病さ、怠惰、うしろめたさ、弱さ、安らぎ、想像力、そして愛情、わが同胞!

この手元に戻り、いま目の前で変わり続けるできごとを少しでもマシなものにするために、力を合わせ、ぼくというひとつの姿を借り、ともに進んでいこう。

見えている景色は退屈で凡庸で変わりばえがないかもしれないが、それを変えることができるのは、この小さな手であって、見知らぬどこかの誰かではない。

それから、変えることだけにこだわる必要はない。

ひとつのことを深めること、味わうこと、楽しむことに、どっぷりと浸かってもいい。

自分の手の届く範囲にあるものをしっかりとつかんで。

少し離れているぐらいのものなら、ぐっと力をこめてたぐり寄せ、自分のものにすればいい。

たけど、あまりに遠いところに行くときは、みんなで相談だ。

思いきりジャンプして崖から落ちてもちゃんと受け身が取れる自信があれば飛べばいいし、無理なら今はやめておけ。

迷うことがあったら、何度でも、何度でも、手元にまた意識を戻せ。

いまできること、自信をもってやれること、苦労はそれなりにするのはわかってるけどしかしきっと自分ならやりきれるだろうことに全力を尽くせ。

あの手この手を尽くして、すっかり年を取りきって、また遠いどこかにふわふわと意識が離れていって、しかし今度はすぐにまた手元に戻ってきて、なんだ大切なものは全てここにあったじゃないかと、そう言い切れるようになるまでは、何度でも、何度でも、手元に意識を戻せ。

ここではないどこか、よりも、他にはないここを作っていけ。

わが同胞!

ワークライフバランスなんて、いらない。



年末年始、しっかり仕事を休んだのだが、ずっと体調が悪くて家事にも全然手が回らない状態だった。



休みに入るギリギリまでやたら忙しくてすでに体の具合が悪かったから、それも原因かもしれない。

だがそれ以上に、家にいると色んなタスクがあって、普段の仕事以外でやっておきたいと思っていた読書や情報収集をする時間は意外となくて、やるとしたら子どもが寝たあとの深夜だが、遅くまで起きてさらに体調を崩すのも怖くて、結局何も手をつけられずにいる、その焦りとか不安がひどくて、久しぶりに、実はまだ自分は大学が卒業できていないという設定の悪夢を見たりした。

それで、最近ぼくは過剰にワークライフバランスなるものを気にしすぎていたなと思って、この両者はそもそもワークとライフに分割するから不幸が起こるようにも思った。

会社にいたって、家庭にいたって、あるいは旅行をしていたって、そこには業務なり家事なり日程の調整なり、何らかのワークは発生するのである。

ワークとライフが別々に存在するようなことを言うから、ワークはライフをちょっとバカにしつつも腫れ物に触るような態度を取り、ライフはワークにちょっと遠慮してるようなフリをしつつもなんだいつも偉そうにしやがってと思ってる、そんな状態が起こるのだ。

必要なのは、この剣呑な感じの両者の間に入ってまあまあとバランスを取ることではなく、分かれてしまったライフとワークという二つの人格をひとつに再統合することなんじゃないだろうか。

じゃあその統合された人格は何なのだと言われたら、これはいたってシンプルで、生きること、である。

仕事をしたって、家事をしたって、何もしなくたって、生きてることに変わりはない。

生きること自体を、これからどうするのか、実はぼくらはそんなシンプルで、そしてとても難しいお題を与えられている。

しかし、ぼくは今なら、ワークとライフの間に挟まって気疲れしながら死んでいくよりも、生きることをどうするか、という問題に正面からぶつかっていったほうがずっと楽しいように感じている。

遅くまで仕事していたって、家事に追われていたって、その両方の中でにっちもさっちもいかなくたって、それは生きることには変わりない。

同じ生きるなら、たっぷり悩んで、たっぷり試行錯誤して、たっぷり苦労して、たっぷり幸せを感じて、たっぷり笑っていきたい。

あと、ほんのちょっとでいいのでこの世の神秘に触れてみたい。

それが、ぼくが望むものだ。



ワークとライフのバランスなんか、いらないのだ。

弱くなる、練習。




若い頃に自分が一番時間と労力を費やしていたのは、自分が好きなものは何かということについて知ることだったと思う。



自分が好きなものが何かがわかれば、どんなことが起こるかというと、好きではないものへの拒絶反応だったり軽蔑だったり恐怖である。

しかし働き始めると好きなものよりもずっと多くの好きではないものを受け入れていかないといけなくなる。

それで、今思うに、そういう嫌なものを受け入れざるをえないプロセスの中でこそ、本当の自分らしさというか本性というかそういうものが現れてくるような気がする。

サラリーマンというのは毎日がロールプレイングゲームだから、みんなそれぞれの役割をプレイしている。

あなたは得意先の依頼を忠実に受ける下請け会社の一社員です、という役割が与えられたら、それがぼくがプレイできるたった一つのゲームである。

たとえ本当は魔法を使えたとしても戦闘が得意だとしても、そういうことはまったく求められていない、なぜならそういうゲームだからである。

仕事なんてものはそういうものだ、そういうものだとわかっていてもはいそうですかと魔法の力が宿る杖を電卓に持ち替えて、すぐに注文を取りに走り出すことができるわけではない、そういうためらいや戸惑いの中にこそ、その人らしさというものがあるのだと思う。

ただ、多くのサラリーマンがプレイしているゲームでは、そういう人間の逡巡や弱さは通貨として流通していないので、これを徹底して克服するように求められたり、あるいは個人のこだわりを超えたチームや組織による行動がいかに尊いかを説かれたりする。

会社というのは本当に不思議な存在だなと思う。

自分だけでは何ともならないことが、会社という組織の一員であるだけで簡単にできてしまう。

関係者以外入れない秘密のドアの向こうにすんなり入れたり、一人でやったら何週間もかかってしまいそうな書類が数時間で完成してしまったり、おまけにそこで大切な友人や結婚相手まで手に入ったりする。

まさしく壮大な長編ロールプレイングゲームだ。

しかし、このゲームにはちゃんと掛け金が存在していて、それは一定量の価値観をゲームに投じ続けることだ。

経営者と従業員、先輩と後輩、得意先と発注先などさまざまな関係性を受け入れること、あるいは自分たちが世の中に対して提供する商品やサービスとは何かということについて意識を共通させること、あるいは明記されていないがそこにたしかにある不文律を決して破らないこと。

もちろん、自分が大切にしていることのうち、どれだけたくさんのことを仕事に投じるのか、それはその人次第だし、より多くの価値観を会社に捧げたからといって必ずしも報われるとも限らない、しかし程度の差はあるとはいえ、ぼくらは自分たちが働く会社の価値観に多少なりとも影響を受け、行動や思考を制約され、人格を変容させられている。

別にそれがいいとか悪いとかいうことではない。

ただ、いつのまにかぼくは自分の好きなものを簡単に捨てたり、あるいは嫌いなものを簡単に受け入れたりすることに慣れすぎて、そのプロセスをじっくりと味わうのを忘れてしまっているように思う。

その人らしさというのは、何か苦手なものに出くわして、ううんこれはどうにも呑み込めないがどうしたものかと困り顔になっているときや、いやいやこれはちょっと捨てるのは惜しいなあとうじうじ悩んでいるときにこそ、出てくるものだ。

そういう人間の苦い感じの部分、しょっぱい味のする箇所を無視して完成させた仕事というのは、どうも淡白で、人の心を惹きつける力が欠けているように思う。

自分が好きなものがちゃんと真ん中にあって、しかし好きではないものも受けれないといけないという不安定な気持ちがその周りにあって、その弱い部分を狙って食らいついてくる苦手なものたちがいて、それをなんとか自分のものにしようとしたり、あるいはあきらめたり、かっこ悪くじたばたしている行為こそ、生きるということなんじゃないだろうか。

ぼくはひょっとしたら、何でもかんでも簡単に受け入れたり、すぐに好きになってしまうことで、こういうかっこ悪い自分を隠そうとしているのかもしれない。

しかし人生にそろそろ残された時間も短くなっていく中で、つまらない「ええかっこしい」のためだけに、人生の苦みや酸味を知らずに過ごすのはずいぶんもったいないようにも思う。

もっと苦手でも、もっと臆病でも、もっと弱くても、それでいいのだ。