ワークライフバランスなんて、いらない。



年末年始、しっかり仕事を休んだのだが、ずっと体調が悪くて家事にも全然手が回らない状態だった。



休みに入るギリギリまでやたら忙しくてすでに体の具合が悪かったから、それも原因かもしれない。

だがそれ以上に、家にいると色んなタスクがあって、普段の仕事以外でやっておきたいと思っていた読書や情報収集をする時間は意外となくて、やるとしたら子どもが寝たあとの深夜だが、遅くまで起きてさらに体調を崩すのも怖くて、結局何も手をつけられずにいる、その焦りとか不安がひどくて、久しぶりに、実はまだ自分は大学が卒業できていないという設定の悪夢を見たりした。

それで、最近ぼくは過剰にワークライフバランスなるものを気にしすぎていたなと思って、この両者はそもそもワークとライフに分割するから不幸が起こるようにも思った。

会社にいたって、家庭にいたって、あるいは旅行をしていたって、そこには業務なり家事なり日程の調整なり、何らかのワークは発生するのである。

ワークとライフが別々に存在するようなことを言うから、ワークはライフをちょっとバカにしつつも腫れ物に触るような態度を取り、ライフはワークにちょっと遠慮してるようなフリをしつつもなんだいつも偉そうにしやがってと思ってる、そんな状態が起こるのだ。

必要なのは、この剣呑な感じの両者の間に入ってまあまあとバランスを取ることではなく、分かれてしまったライフとワークという二つの人格をひとつに再統合することなんじゃないだろうか。

じゃあその統合された人格は何なのだと言われたら、これはいたってシンプルで、生きること、である。

仕事をしたって、家事をしたって、何もしなくたって、生きてることに変わりはない。

生きること自体を、これからどうするのか、実はぼくらはそんなシンプルで、そしてとても難しいお題を与えられている。

しかし、ぼくは今なら、ワークとライフの間に挟まって気疲れしながら死んでいくよりも、生きることをどうするか、という問題に正面からぶつかっていったほうがずっと楽しいように感じている。

遅くまで仕事していたって、家事に追われていたって、その両方の中でにっちもさっちもいかなくたって、それは生きることには変わりない。

同じ生きるなら、たっぷり悩んで、たっぷり試行錯誤して、たっぷり苦労して、たっぷり幸せを感じて、たっぷり笑っていきたい。

あと、ほんのちょっとでいいのでこの世の神秘に触れてみたい。

それが、ぼくが望むものだ。



ワークとライフのバランスなんか、いらないのだ。

弱くなる、練習。




若い頃に自分が一番時間と労力を費やしていたのは、自分が好きなものは何かということについて知ることだったと思う。



自分が好きなものが何かがわかれば、どんなことが起こるかというと、好きではないものへの拒絶反応だったり軽蔑だったり恐怖である。

しかし働き始めると好きなものよりもずっと多くの好きではないものを受け入れていかないといけなくなる。

それで、今思うに、そういう嫌なものを受け入れざるをえないプロセスの中でこそ、本当の自分らしさというか本性というかそういうものが現れてくるような気がする。

サラリーマンというのは毎日がロールプレイングゲームだから、みんなそれぞれの役割をプレイしている。

あなたは得意先の依頼を忠実に受ける下請け会社の一社員です、という役割が与えられたら、それがぼくがプレイできるたった一つのゲームである。

たとえ本当は魔法を使えたとしても戦闘が得意だとしても、そういうことはまったく求められていない、なぜならそういうゲームだからである。

仕事なんてものはそういうものだ、そういうものだとわかっていてもはいそうですかと魔法の力が宿る杖を電卓に持ち替えて、すぐに注文を取りに走り出すことができるわけではない、そういうためらいや戸惑いの中にこそ、その人らしさというものがあるのだと思う。

ただ、多くのサラリーマンがプレイしているゲームでは、そういう人間の逡巡や弱さは通貨として流通していないので、これを徹底して克服するように求められたり、あるいは個人のこだわりを超えたチームや組織による行動がいかに尊いかを説かれたりする。

会社というのは本当に不思議な存在だなと思う。

自分だけでは何ともならないことが、会社という組織の一員であるだけで簡単にできてしまう。

関係者以外入れない秘密のドアの向こうにすんなり入れたり、一人でやったら何週間もかかってしまいそうな書類が数時間で完成してしまったり、おまけにそこで大切な友人や結婚相手まで手に入ったりする。

まさしく壮大な長編ロールプレイングゲームだ。

しかし、このゲームにはちゃんと掛け金が存在していて、それは一定量の価値観をゲームに投じ続けることだ。

経営者と従業員、先輩と後輩、得意先と発注先などさまざまな関係性を受け入れること、あるいは自分たちが世の中に対して提供する商品やサービスとは何かということについて意識を共通させること、あるいは明記されていないがそこにたしかにある不文律を決して破らないこと。

もちろん、自分が大切にしていることのうち、どれだけたくさんのことを仕事に投じるのか、それはその人次第だし、より多くの価値観を会社に捧げたからといって必ずしも報われるとも限らない、しかし程度の差はあるとはいえ、ぼくらは自分たちが働く会社の価値観に多少なりとも影響を受け、行動や思考を制約され、人格を変容させられている。

別にそれがいいとか悪いとかいうことではない。

ただ、いつのまにかぼくは自分の好きなものを簡単に捨てたり、あるいは嫌いなものを簡単に受け入れたりすることに慣れすぎて、そのプロセスをじっくりと味わうのを忘れてしまっているように思う。

その人らしさというのは、何か苦手なものに出くわして、ううんこれはどうにも呑み込めないがどうしたものかと困り顔になっているときや、いやいやこれはちょっと捨てるのは惜しいなあとうじうじ悩んでいるときにこそ、出てくるものだ。

そういう人間の苦い感じの部分、しょっぱい味のする箇所を無視して完成させた仕事というのは、どうも淡白で、人の心を惹きつける力が欠けているように思う。

自分が好きなものがちゃんと真ん中にあって、しかし好きではないものも受けれないといけないという不安定な気持ちがその周りにあって、その弱い部分を狙って食らいついてくる苦手なものたちがいて、それをなんとか自分のものにしようとしたり、あるいはあきらめたり、かっこ悪くじたばたしている行為こそ、生きるということなんじゃないだろうか。

ぼくはひょっとしたら、何でもかんでも簡単に受け入れたり、すぐに好きになってしまうことで、こういうかっこ悪い自分を隠そうとしているのかもしれない。

しかし人生にそろそろ残された時間も短くなっていく中で、つまらない「ええかっこしい」のためだけに、人生の苦みや酸味を知らずに過ごすのはずいぶんもったいないようにも思う。

もっと苦手でも、もっと臆病でも、もっと弱くても、それでいいのだ。

スーツの上に、何を着るか問題。



いろんなものを重ねて着るのは避けたいのだ。



理想は、シャツを着た、ジャケットを着た、その上にあと一枚何かを着た、という3枚だ。

そうすればそうでなくてもクソ忙しい朝の服を着る時間が短くなるとか、へとへとになって帰ってきたときでも楽に脱げるとか、まあそういう理由はどうでもよろしい、要はシンプルにしたいのだ。

ところが現実はそう簡単ではなくて、シャツの下に何か肌着的な、できればちょっと体温が逃げないみたいな工夫がしてあるやつをつい一枚着たくなるし、まあそれは好みの範囲だとしても、やはりジャケットの上にコートを一枚だけ着ると、心もとない。

おまけにそのコートが、よくあるジャケットと似たような仕様の、胸のところが開いているやつだと胸から首にかけてのスースーが耐えられない。

耐えられない結果、マフラーをする。

もっとタチの悪いのは、マフラーをしたついでに手袋までしてしまう。

こうなるとせっかくシンプルに行こうとしていた計画が台無しである。

シンプルでない上に、いちいちマフラーや手袋を付けたり外したりすることが面倒な上に、落とし物の危機にさらされることになる。

特にこの飲み会の多い季節である。

酔っぱらっている状態で、会社用のスマホに自分用のスマホに財布にICカードにほにゃららにと色んなものをなくさないように気を配らないといけないのに、マフラーや手袋の管理までしていては大変だ。

ものすごいストレス!

ストレスと言われてみれば、気のせいかコートってちょっと重いし、肩が凝るようにも思い始めてきた。

ネクタイしめてジャケット着ているだけでも肩が凝るのだ、この上にさらなる負荷は避けたい。

ううん、厳しいぞコート。

となるとコートをあきらめて、ダウンジャケットである。

ダウンジャケットはすごい。

シャツを着た、ジャケットを着た、ダウンジャケットを着た、この3枚で、まあ大阪や東京の冬ならだいたい大丈夫である、これはたしかにすごい。

ただ残念なことに、とにかくモコモコしている。

寒い外を歩いているときはあまり気にならないのだが、暖かい屋内に入ったときに自分だけモコモコしていると、何一人でモコモコしてるんだと、ひどくバカげて見える。

おまけに、うっかり満員電車に乗ってしまうと、過剰に熱を吸いこんでしまったモコモコに身体をしめあげられて脂汗をダラダラ流し、ハアハアと気味の悪い声を上げながら苦しむこととなる。

相当気持ち悪い。

いやいや今は薄くておしゃれなダウンジャケットもありますよと諸兄はおっしゃるかもしれないが、そういうダウンジャケットというのは総じて値段が高い、そんな高額なダウンジャケットを買ってしまっては、汚さぬように、傷つけぬようにと気を使ってしまって、これまた無駄に肩が凝る、必要な時にサッと着て、いらなくなったらサッと脱ぐ、そういう気軽な感じが、高級で薄くておしゃれなダウンジャケットには全くない、これでは本末転倒である。

さあて、一体何を着ればよいのか、さっぱりわからなくなってきた。

ならば流行のなんたらテックのような軽くて安いものを着たらいいじゃないかという諸兄もおられるだろうが、これがなかなか厳しい。

スーツの上にあのツルツルした素材のなんたらテックを着ると、なぜかだいたいの男性は、会社のジャンパーを着てるのとほぼ変わらないシルエットになるのである。

これなら会社のジャンパーを着ていたらいいではないか、支給されるのならお金もいらないし。

いやむしろ、それが正解なのかもしれない。

どうせ会社に通うため、あるいは会社の仕事をするために外出しているのであれば、会社のジャンパーを着て通勤すればいいのだ。

私は会社の仕事をするために移動している最中なのですよ、と周りからもわかりやすい。

なんて開き直っても何の解決にもならない。

それじゃ少し趣向を変えてみようかと、
ちょっとカジュアルなカーキ色のジャケットを着ればみんな出世ルートから外れた所轄の刑事になる。

がんばって皮のジャケットを着てみれば出世ルートから外れたあと闇の組織から裏金受け取ってる刑事になる。

思い切って変わった素材や色のジャケットに挑戦すれば出世ルートからはまだ外れてないがこのあと犯罪組織への潜入捜査がバレて見せしめで殺される刑事になる。

結局、何着ても刑事になる問題!

一体、いつになれば冬の上着に関する答えが見つかるのか。



今のところは、完全に迷宮入りしているのである。