好きは、本当に好きなのか。




好きなことを仕事にするべきかどうか。



id:fktackさんの記事を読んでいて、fktackさんは、好きなことができる会社に転職するから辞めるという後輩としゃべってから、後でこう思ったそうだ。

好きもいいけれど仕事は他人のやりたがらないことをするとポイントが高い 誰でもできるがなるたけやらずに済まそうとすることが良い しかしポイントとはお金のことではなく 居心地とかそんなのだ

好きというのは足枷だ - 意味をあたえる


ちょうど最近、会社の後輩とそういう話をしていて、人には「やりたいことがある人」と「ありたい自分がある人」がいて、まあ無理に二つに分けなくても誰だってその両方があるのだけど、いぬじんさんのようにいつも何かやりたいことがある人ばっかりじゃないんですよ世の中はとその後輩から言われたところだった。

そんな風に言われると、自分はいつもやりたいことがある、好きなことがある状態だったのかと振り返ってみるに、果たしてそれが「やりたいこと」なのか、自分として勝手に「やらなければいけないこと」と思い込んでいるだけなのか、そのあたりは怪しい。

コピーライターを目指していたときも、コピーを書きたいというよりは、自分はコピーを書かなければいけない、そうじゃないとダメなんだという妙に切迫した気持ちが強かったような気がするし、コピーを書き出してからも、いいコピーを書かなくちゃいけない、というやっぱり切羽詰まった感情をいつも持っていた。

じゃあそれが楽しかったのかどうかと言われるとよくわからなくて、楽しいこともたくさんあったが同じかそれ以上に辛いこともあって、だから今はコピーを書かなくてよくなってちょっとほっとしている部分も正直あるように思う。

そう考えてみると、ぼくの場合は「好きなこと」というのはどこかで「やりたいこと」から「やらなければいけないこと」に変わっていく傾向があって、そのうちそれが辛くなってくるので、何かの理由でそれができなくなっても、会社から無理やり異動させられたりしても、それはそれで内心は解放されて気分転換になっているのかもしれない。

あるいは、ぼくは頭のどこかで、いつもやりたいことをやらなければいけない、というように自分に言い聞かせているかもしれなくて、もしそうだとしたらそれはそれで他人の目から見れば苦しい生き方のようにも思えてくる。

しかしぼくはたいして苦しいとは思っていなくて、それはぼくの全てが「やりたいこと」で満たされているわけではないからであって、いつもぼく以外の何か、急な部署異動やわけのわからない相談や子どもの急な発熱や新幹線の立往生によって影響を受け、「やりたいこと」自体が変わり続けていくからである。

そう考えると、人間は好きなことだけじゃ生きていけないというか、つまらないというか、他人のやりたがらない仕事もやったり、あるいは全く何にもやらなかったりしているうちにまた新しい楽しみが見つかったりするので、あまり好きかどうかということにこだわりすぎても仕方ないのかもしれない。

ここまで書いていて思ったことだが、自分が本当に求めていることは、自由、というものに近い気がして、それは全てのものから解き放たれた自由というよりは、何かを勝手に好きになる自由、というイメージがある。

ということは反対に、嫌いになる自由や、飽きる自由もあってもいいわけである。

であれば、自分ができることは色々あったほうが好きになれる選択肢は広がるし、嫌いになっても別の好きを探しに行くことができる。

問題は、年をとるとできないことも増えてくるので、新しい好きを見つけるよりも、深めていくほうに目が行くような気もする。



しかし視野が広がるので新しい好きがより見つけやすくなるような気もする。

やりたいことは、必要か。


今の世の中には、やりたいことを見つける能力自体に格差があるのではないか、というid:lets0720さんの記事を読んだ。

近年、富の格差や教育格差の深刻さが叫ばれているが、それ以上に深刻なのがモチベーションの格差ではないかと思う。どれだけ所得があっても、どれだけ高度な教育を施されても、そこになんらかの動機を見出せなければ、生きる気力を維持できない。

http://www.sekaihaasobiba.com/entry/2017/12/03/172040


やりたいこと、モチベーション、動機、これらはそれぞれ微妙に違うようには思うが、とにかくそういうものを持っていないと生きていけない、というのは事実ではなく、言説にすぎない。

別に特別何かやりたいことがなくても、ただ生きたい、とにかく死にたくない、だから生きてる、というような生き方だってある。

問題は、やりたいこと、自己実現、夢、そういうものがないと生きてる意味がない、という文脈を受け入れて暮らしているかどうか、ということじゃないだろうか。

もっと言えば、ぼくはこういうことがやりたくて生きてます、と他者に表明できるようなものを持つべきだという文脈である。

社会貢献をしたいです、困った人を助けたいです、世界中を笑わせたいです、職人として道を極めたいです、家族を守りたいです。

しかしやりたいことというものは必ずしも他人に言えることとは限らない、女の人の足の裏を嗅ぐのが夢だという人もいるだろうし、社会に影響を与えたいと思っていても口に出すのは恥ずかしくて絶対に言えない、という人もいるだろう、だからこの「やりたいこと表明ゲーム」に参加できるのは、自分のやりたいことを社会的に承認される形で納められる限られた人たちだけなのだろう。

それじゃこのゲームに参加できない人は指をくわえているしかないのか、と考えるに、それじゃあ時間がもったいないので別のゲームを始めてみるのもいいのかもしれない。

たとえば、やりたいことをあえて隠して、それを当て合うゲームだってあるんじゃないか。

恋愛がそうである。

お互いのやりたいこと、つまり相手と一緒にいたいという願望が同じかどうかを当て合う、そういうルールのある遊びだ。

あるいはスポーツやテスト勉強は、やりたいことを勝ちたい、生き残りたい、というものに統一してしまって、そのプロセスを競い合う遊びだし、そのあたりがより高度になっていけば文化とか芸術とかになっていくのかもしれない。

そしてブログは、特にやりたいことがなくても、自分の気持ちや考えや日々の記録を他者に発信することができる。

やりたいことがない、ということ自体を書くネタにできるのだ。

そう考えると、ぼくらは思っているよりも色んな方法をすでに手にしていて、社会的に承認されたやりたいことしか言ってはいけない世界から自由になれるだけの力を十分に持っている。

ただ、そういう視点自体を持てるか持てないかにも格差がある、といえばそうなのかもしれない。

しかし、だからこそ世界には本があり、マンガがあり、映画があり、言葉があるんじゃないだろうか。

世界には、やりたいことなんかなくたって、いくらでも生きる喜びを味わう方法があふれていることに気づくために。

それは誰か、同じような悩みにぶつかってきた人から、あなたにあてたメッセージなのである。

アイデアを、邪魔するもの。


年を取ると、頭の中にどんどんショートカットが増えていって、物事を考えるときに、ああそれならこれと関係あるよねとか、その原因はこれだろうとか、予測がつくようになる。



効率化、スピード化が求められる時代において、それはとても重要なことなのかもしれないが、何か面白いことを考えたい、楽しいことを思いつきたい、という場合はこのショートカットが邪魔になるように最近よく感じる。

ショートカットがあるということは、そこは一度ならず何度も通った道なので、その先にある情報は見覚えのあるものばかりで、ワクワクしないのだ。

イデアは異質なものの組み合わせだから別にひとつひとつの情報は知っているものでも、その組み合わせが独創的ならいいんじゃないか、と思うかもしれないが、なかなかそんな簡単にはいかないもので、ついつい使い慣れたネタ同士を短絡的に組み合わせようとしてしまうので、退屈な結果しか得られなかったりする。

ランチに行くときについ仲の良い友達同士ばかりを誘ってしまうようなものだ。

そこで苦手な上司と嫌いな同僚とを誘っておまけに行ったことのない店に向かうような選択は、なかなか起きにくい。

だが、本当に重要なところはそこで、苦手な人や一言もしゃべったことのない人と食事に行ってみないと新しい発見はなかなかないのである。


頭の中のショートカットを捨てる、あるいは一時的に忘れる、というのは意外と難しいことだ。

誰でも過去の経験を参考にしたいし、同じ辛さを繰り返したくないし、周りからアホだとも思われたくない。

また、どれだけ忘れようとしても、そのショートカットはもはや無意識レベルで埋め込まれている場合も多い。

じゃあどうすればいいのか。

知らないことに触れるしかない。

知らない知識、知らない話、知らない人、知らない体験、知らない場所、知らない痛さ、知らない気持ちよさ、知らないバカバカしさ、知らない悲しみ、知らない怒り、知らない喜び、知らない幸せ、そういったものに出会うのだ。

残念ながらそれはグーグルの中には存在しない。

自分で動いて、ムダな時間を使って、ムダなお金を使って、ムダな苦労をして、ムダな遊びをして、ムダな反省をしないと手に入らない。

一般的にはそういうことはアホな人のやることだと思われているかもしれないが、しかしもはや人工知能によって様々な問題解決が進んでいる昨今において、アホなことをやる以外に、人間の価値なんてあるだろうか。

今書いていて思い出した、これも書こうと思って忘れていたのだけど、アイデアを思いつくために大事だと思うことがもうひとつあって、それは思いつくまでのプロセス自体もワクワクしないとダメだということだ。

むしろそっちのほうが大事な気もする。

ああこれは知ってる、これも知ってる、それもわかってる、というような態度ではまったくワクワクしない。

えーなんだこれ!うわー変だぞこれ!ひえーこう来たかこれ!といちいちびっくりしたり興奮しながら考えを進めていくと、頭のどこかの、かしこさを司る部分が麻痺してくる、そうするとショートカットが機能しなくなってきて、色んなことが新鮮に思えてくるのである。

まあこれもアホにならないとできないことである。

周りから頭がいいと思われようとか、あるいは自分のことをかしこいと思おうとしていては、永遠に得られない快感だろう。

そんなわけで、ぼくは自分がアホであることをしっかり肯定したいと思う。

あーぼくはアホや、ほんまにアホや。

(それはそれであざとい感じがするな)