どうでもいい、こと。





色々とチャンスはあったはずなのにいまひとつ良い評価が得られなかったなと思うTVCMの仕事があって、その原因はぼく1人で勝手にやりたい企画を考えて、それをみんなに無理やり押しつけて、だけどどうもみんなイマイチその面白さがよくわからなくて、つまりそれは結局あんまり面白くなかったということなのだけど、それでも納期が迫っているからとか出演者も決まっちゃっているからとかそういう理由で強引に進めてしまって、いまだにあれは辛かったなあと振り返ることがある。



そのときに一番印象に残っているのが、やっぱりイマイチ盛り上がらない撮影現場で、なかなか満足いくシーンが撮れなくて何度も粘って、ちょっとはマシになってきて、だいぶいい感じなのでちょっとだけセットを動かしてもう一発行ってみましょうということになって現場をちょっと離れようとしたときに、録音部の人が、ああこの子のこういう感じはいいよね、こういうのは新しいんだろな、なるほどね、とつぶやいているのが聞こえたときだ。

ぼくはそれを聞いてとてもがっかりしたのである。

誰も期待していなかったのだ。

オンエアしてから(あるいはする前から)話題になるCMというのは、こいつは面白くなりそうだぞというワクワクした感じが企画の打ち合わせをしている時からあって、企画が決まってさあどうやって作ろうかという相談をしている時もみんな明らかに興奮しているし、どんどんアイデアが出てくるし、そりゃあちょっと違うんじゃないかというネガティブな話をしていてもみんな目は死んでなくて、むしろらんらんと輝いている。

さてどうやって料理してやろうかとみんなが手ぐすね引いている感じがビシビシと、はっきりと、伝わってくる。

だから今回の仕事には誰もそれほどワクワクしていないのをぼくが一番感じ取っていたと思うし、だけどひょっとしたらオレのスーパーアイデアが最後の最後に撮影現場で爆発するんじゃないかとかわけのわからない希望だけを抱いて撮影に臨んだわけだが、やっぱりダメだったのだ。

チームのみんなが面白いなと思って取り組んでいない仕事は、やっぱり面白いものにはならないのだ。


ぼくは他にも特に話題にもならない仕事も、特に面白くもなんともない仕事もしてきたのだけれども、いまだにこの仕事での経験が心のどこかに引っかかっている。

結局、ぼくが後悔しているのは、あの時、チームメンバーと一緒にいい時間をすごすことができなかったことだ。

もっとワクワクできる時間を共にすることができたはずの仕事で、ぼくが強引に物事を進めてしまったせいで、誰もワクワクできず、期待もせず、よしこれでちょっと世間をあっと言わせてやろうというあの悪だくみを共有する感じをまったく生み出すことができなかったことだ。


面白い仕事をするのが大事だという話をしたいのではない。

なんなら仕事の話をしたいわけでもない。

ぼくは、ここまでこの話を書き進めるまでは、だから残りの人生の中でともに時間を過ごす人とは、できるだけ良い時間をすごせるように努力したいと言いたかったのだが、なんとなくそういうことでもないような気がする。


あえて言うなら、ぼくが残りの人生をどれだけダイナミックで、波乱万丈で、あるいはとても幸福で深く満足いくように生きることができたとしても、心に強く刻まれている記憶というのは、自分が思っているよりも何段階もかっこわるくて、恥ずかしくて、ちっぽけで、苦くて、後悔してもまったく手遅れなことばかりなのかもしれない、ということである。

そして、だからといってそのこと自体をひどいものだとは思わないし、ぼくにとっては、年を取るということはそういうものなのだろうなということである。

自分あてのメッセージに、飢えている。



スマホをいじっていないと気がすまないようになってから久しいのだが、いったい何をそんなにいじることがあるのかといえば、だいたいは仕事関係のメッセージのチェックと返信をしたあと、ニュースを見るかファイヤーエムブレムをしているだけで、そうしているあいだにまたメッセージがやってきてそれに返信をしている。

結局、ぼくはそれを望むにせよ、望まざるにせよ、誰かからぼくあてにやってくるメッセージを待っていて、そのあいだに別のことをして時間をつぶしているだけなのである。

これはスマホだけに限られた話ではなくて、ぼくの人生というのも似たようなものである。

会社からの評価が言い渡されてから、次の評価を受けるまでの1年間、他にすることもないから働いているだけであり、得意先から仕事をもらってからこれを完了させて何らかの感想をもらうまでの間、他にすることもないから懸命に作業をしているだけであり、妻と子どもからおかえりと言ってもらうまでの間、なんとなくサラリーマン面をしてバタバタしているだけである。

あるいは生きることだって、この世に生を受けてから、もう死んでもいいんだよというメッセージを受け取るのをずっと待ち続ける行為なのかもしれない。

ただ、最近はどうも、こういう考えかたに慣れすぎてしまっていて、自分あてのメッセージがやってくる、そのことばかりで頭がいっぱいになっている。

本当にぼくらはメッセージを受け取るためだけに生きているのだろうか。


これについてはイエスと言えるかもしれない。


だが、それは、ある日失くしたと思っていた自転車の鍵がひょっこり出てきて夫婦で笑いあったり、新幹線でたまたま知り合った人とのやりとりがラジオで紹介されたという連絡が来たり、子どもが図書館に行きたがるのに嫌々ついて行った先ですてきな本に出会う、そういうメッセージだ。

こういったメッセージたちは、もちろんじっとしていてもやってこないけど、追い求めたからといって手に入るわけでもない。

ただ、時折、ぼくらが思いもしない方法でやってくる。

これに出会う方法はたったひとつしかない。

それは、自分あてのメッセージを見逃さないように耳をすませ、身の回りで起こることに目を配り、自分のできることをやり、機嫌よく暮らし、悲しいときはしっかりと悲しみ、腹が立つときはちゃんと腹を立て、大切にしていることを堂々と大切にして・・・


やがて何かが聞こえてくるまで、ただ気長にじっくりと、その時間を楽しみながら待つことだけなのだ。

偶然のできごとには、興味がない。



先日、東京から大阪に新幹線で戻るときに、架線が切れたらしくて途中で停止し、5時間のあいだ止まった車両の中にいた。



新しい話題に敏感なブロガーだったらこれはおいしい経験だと思うのかもしれないが、実際にブログに書こうかな、と思ったのはもう大阪に戻ってきてずいぶん時間が経ってからだったし、書こうかなと考えた瞬間になんだかめんどうになり、結局何も書かなかった。

それでだいぶ時間が経ってから、止まった車両でたまたま隣り合わせになった方から連絡をいただいて、その方とは新幹線が止まってるあいだ他にやることもなかったので二人で何時間も仕事の話や人工知能の話をして退屈をまぎらわせていたのだが、その経験をラジオ番組に投稿したら読んでもらえました、ということだった。

トラブルに居合わせることをおいしいと思うのはブロガーだけではないらしい。

その連絡をいただいたときにぼくはPTAの行事に参加していて、ぼくは自分のボスも前のボスも女性だったし女性ばかりの職場に出向していたこともあるので母親だらけの集まりというのも平気だと思っていたのだが、このPTAというのはいまだになじめなくて、それはこちらがいくら平気でも向こうが平気じゃないからなのだが、今日の先生が話してくれた国語や社会の話はちょうど自分の関心があることと一致していて、とても役に立った。

しかしよく考えれば、国語も社会も算数も理科も英語も音楽も体育も図工も、だいたいのことは生きていれば関係あり続けることのような気がするし、それはそういう教科を学んできた人間たちがこの世界を作り出しているのだから当たり前なのである。


ぼくは偶然とか奇遇とかそういうたぐいのものを必要以上にきゃあきゃあ言ってもてはやすのはまったく好きではなくて、だれそれさんはだれそれさんと同じ誕生日なんだよねきゃあきゃあとかというけれどたった365通りしかない誕生日の中でたまたま一致していたからといって何なのだと思う。

もうちょっといえば誕生日のことについてうれしそうに話す人がとても苦手で、今日オレ実は誕生日なんだよねとか、あいつ誕生日だからみんなでお祝いしようぜとか、みなさんお祝いのメッセージありがとうございますついに私も不惑とかなりましたが色々と惑うことも多い日々をすごしていますけれどもなんとかやっていますのは本当にみなさまがあたたかく見守って下さるからでして本当にありがとうございますみんなー愛してるぜー八千代ー!今日は早く帰ってたくさん愛し合おうぜーベイベー!みたいな文章を見ると吐き気がしてきてそっと画面から目をそらすのである。

しかし、さていまぼくが書いたようなことも、ぼくにとってはそれなりにほっこりしたり喜ぶべき偶然ではあっても、はっきりいってどうでもいいことなのである。

どうでもいいことを一人語りしているやつよりは、まだ八千代とどうでもいいオレ様の誕生日の喜びを無理やり共有しているほうがましだという見方もできるだろう。

もうちょっといえば、この世に起きるできごとのうちほとんどのことはどうでもいいことであって、しかしそのどうでもいいことのうち、たまたまどうでもいいはずの日が、かけがえのないオレ様の誕生日だったということについでだけ、オレ様と関係あることがあった、ということなのだろう。

ぼくたちはそうやって、無数の情報の中から自分に関係のあることだけを選びとって、それを喜び合ったり押しつけたりラジオに投稿したりブログに書いたりしているのである。


世の中にはよく気がつく人たちがいて、ああ今日は君の誕生日だったよねとか、もうすぐ部長の誕生日ですよねとか、そういう情報をこまめに発信するので、ぼくたちは周囲の人々というのも自分と同じようにどうでもいい世の中に存在している一方で、自分たちはどうでもよくない存在でもあるのだということを無理やり伝えられる。

繰り返すが、この世の中におけるほとんどのできごとはどうでもいい一方で、ぼくたち一人一人の人間はけっしてどうでもよくない存在なのである。

このことはぼくにとってはまあまあ当たり前のことなのだが、わざわざ今日は課長の誕生日ですよねと言われるせいで、お前はそんなことも知らなかったのか、このいつも愚痴ばかり垂れている割に何も積極的に新しいことに挑戦しようとしないこのクソ課長だって実は一人の人間であって一個の生命として一生懸命に生きているということを知らなかったのか、この鈍感で空気が読めなくて冷たいやつらめと、そういうメッセージが飛び交っているようにしか見えない。

もちろんこれは考えすぎであり、誕生日メッセージを飛ばしあっている人たちというのは心からの善意でやっているのだろうし、ここまで敵意の対象にされる必要もまったくないのだけれども、しかしぼくらの世界というのはそうやって、わざわざ「ねえねえオレたちってさ、色々あるけどさ、実は一人一人が人間であって、かけがえのない存在だってこと、覚えているよね?」と確認しあう行為を必要としているほどに、一人一人の人間がフォーカスされる機会を失っていっているような気がしてならない。


それと同じような意味で、ぼくは趣味という言葉もあまり好きではない。

何か自分が懸命に取り組んでいるものを指して「趣味」と言ってしまった瞬間に、そのものはただの「趣味」でしかなくなり、自分の外に放り出されてしまう気がする。

まあ自分は素人だしこの程度だよな、というようなはっきりとしたあきらめの色によって塗りつぶされ、心の中にそっと隠されていた憧れや欲望や執着は干からびてしまい、その抜け殻だけをいびつな形につなぎあわせて完成させられた「趣味」という名の作品を見ても、悲しみを感じこそすれ、ほっこりした気持ちになれるなんてのはあまりにも解脱がすぎると思う。


ぼくらはもっと自分の執着に対して執着したほうがよいし、他人の幸せに対しても明確に嫉妬したほうがよいのである。

そんなわけで、新幹線でのできごとを投稿して見事ラジオで取り上げられた隣の席の人物には心より嫉妬申し上げる。




ちなみに今日はぼくの誕生日ではない。