自分あてのメッセージに、飢えている。



スマホをいじっていないと気がすまないようになってから久しいのだが、いったい何をそんなにいじることがあるのかといえば、だいたいは仕事関係のメッセージのチェックと返信をしたあと、ニュースを見るかファイヤーエムブレムをしているだけで、そうしているあいだにまたメッセージがやってきてそれに返信をしている。

結局、ぼくはそれを望むにせよ、望まざるにせよ、誰かからぼくあてにやってくるメッセージを待っていて、そのあいだに別のことをして時間をつぶしているだけなのである。

これはスマホだけに限られた話ではなくて、ぼくの人生というのも似たようなものである。

会社からの評価が言い渡されてから、次の評価を受けるまでの1年間、他にすることもないから働いているだけであり、得意先から仕事をもらってからこれを完了させて何らかの感想をもらうまでの間、他にすることもないから懸命に作業をしているだけであり、妻と子どもからおかえりと言ってもらうまでの間、なんとなくサラリーマン面をしてバタバタしているだけである。

あるいは生きることだって、この世に生を受けてから、もう死んでもいいんだよというメッセージを受け取るのをずっと待ち続ける行為なのかもしれない。

ただ、最近はどうも、こういう考えかたに慣れすぎてしまっていて、自分あてのメッセージがやってくる、そのことばかりで頭がいっぱいになっている。

本当にぼくらはメッセージを受け取るためだけに生きているのだろうか。


これについてはイエスと言えるかもしれない。


だが、それは、ある日失くしたと思っていた自転車の鍵がひょっこり出てきて夫婦で笑いあったり、新幹線でたまたま知り合った人とのやりとりがラジオで紹介されたという連絡が来たり、子どもが図書館に行きたがるのに嫌々ついて行った先ですてきな本に出会う、そういうメッセージだ。

こういったメッセージたちは、もちろんじっとしていてもやってこないけど、追い求めたからといって手に入るわけでもない。

ただ、時折、ぼくらが思いもしない方法でやってくる。

これに出会う方法はたったひとつしかない。

それは、自分あてのメッセージを見逃さないように耳をすませ、身の回りで起こることに目を配り、自分のできることをやり、機嫌よく暮らし、悲しいときはしっかりと悲しみ、腹が立つときはちゃんと腹を立て、大切にしていることを堂々と大切にして・・・


やがて何かが聞こえてくるまで、ただ気長にじっくりと、その時間を楽しみながら待つことだけなのだ。

偶然のできごとには、興味がない。



先日、東京から大阪に新幹線で戻るときに、架線が切れたらしくて途中で停止し、5時間のあいだ止まった車両の中にいた。



新しい話題に敏感なブロガーだったらこれはおいしい経験だと思うのかもしれないが、実際にブログに書こうかな、と思ったのはもう大阪に戻ってきてずいぶん時間が経ってからだったし、書こうかなと考えた瞬間になんだかめんどうになり、結局何も書かなかった。

それでだいぶ時間が経ってから、止まった車両でたまたま隣り合わせになった方から連絡をいただいて、その方とは新幹線が止まってるあいだ他にやることもなかったので二人で何時間も仕事の話や人工知能の話をして退屈をまぎらわせていたのだが、その経験をラジオ番組に投稿したら読んでもらえました、ということだった。

トラブルに居合わせることをおいしいと思うのはブロガーだけではないらしい。

その連絡をいただいたときにぼくはPTAの行事に参加していて、ぼくは自分のボスも前のボスも女性だったし女性ばかりの職場に出向していたこともあるので母親だらけの集まりというのも平気だと思っていたのだが、このPTAというのはいまだになじめなくて、それはこちらがいくら平気でも向こうが平気じゃないからなのだが、今日の先生が話してくれた国語や社会の話はちょうど自分の関心があることと一致していて、とても役に立った。

しかしよく考えれば、国語も社会も算数も理科も英語も音楽も体育も図工も、だいたいのことは生きていれば関係あり続けることのような気がするし、それはそういう教科を学んできた人間たちがこの世界を作り出しているのだから当たり前なのである。


ぼくは偶然とか奇遇とかそういうたぐいのものを必要以上にきゃあきゃあ言ってもてはやすのはまったく好きではなくて、だれそれさんはだれそれさんと同じ誕生日なんだよねきゃあきゃあとかというけれどたった365通りしかない誕生日の中でたまたま一致していたからといって何なのだと思う。

もうちょっといえば誕生日のことについてうれしそうに話す人がとても苦手で、今日オレ実は誕生日なんだよねとか、あいつ誕生日だからみんなでお祝いしようぜとか、みなさんお祝いのメッセージありがとうございますついに私も不惑とかなりましたが色々と惑うことも多い日々をすごしていますけれどもなんとかやっていますのは本当にみなさまがあたたかく見守って下さるからでして本当にありがとうございますみんなー愛してるぜー八千代ー!今日は早く帰ってたくさん愛し合おうぜーベイベー!みたいな文章を見ると吐き気がしてきてそっと画面から目をそらすのである。

しかし、さていまぼくが書いたようなことも、ぼくにとってはそれなりにほっこりしたり喜ぶべき偶然ではあっても、はっきりいってどうでもいいことなのである。

どうでもいいことを一人語りしているやつよりは、まだ八千代とどうでもいいオレ様の誕生日の喜びを無理やり共有しているほうがましだという見方もできるだろう。

もうちょっといえば、この世に起きるできごとのうちほとんどのことはどうでもいいことであって、しかしそのどうでもいいことのうち、たまたまどうでもいいはずの日が、かけがえのないオレ様の誕生日だったということについでだけ、オレ様と関係あることがあった、ということなのだろう。

ぼくたちはそうやって、無数の情報の中から自分に関係のあることだけを選びとって、それを喜び合ったり押しつけたりラジオに投稿したりブログに書いたりしているのである。


世の中にはよく気がつく人たちがいて、ああ今日は君の誕生日だったよねとか、もうすぐ部長の誕生日ですよねとか、そういう情報をこまめに発信するので、ぼくたちは周囲の人々というのも自分と同じようにどうでもいい世の中に存在している一方で、自分たちはどうでもよくない存在でもあるのだということを無理やり伝えられる。

繰り返すが、この世の中におけるほとんどのできごとはどうでもいい一方で、ぼくたち一人一人の人間はけっしてどうでもよくない存在なのである。

このことはぼくにとってはまあまあ当たり前のことなのだが、わざわざ今日は課長の誕生日ですよねと言われるせいで、お前はそんなことも知らなかったのか、このいつも愚痴ばかり垂れている割に何も積極的に新しいことに挑戦しようとしないこのクソ課長だって実は一人の人間であって一個の生命として一生懸命に生きているということを知らなかったのか、この鈍感で空気が読めなくて冷たいやつらめと、そういうメッセージが飛び交っているようにしか見えない。

もちろんこれは考えすぎであり、誕生日メッセージを飛ばしあっている人たちというのは心からの善意でやっているのだろうし、ここまで敵意の対象にされる必要もまったくないのだけれども、しかしぼくらの世界というのはそうやって、わざわざ「ねえねえオレたちってさ、色々あるけどさ、実は一人一人が人間であって、かけがえのない存在だってこと、覚えているよね?」と確認しあう行為を必要としているほどに、一人一人の人間がフォーカスされる機会を失っていっているような気がしてならない。


それと同じような意味で、ぼくは趣味という言葉もあまり好きではない。

何か自分が懸命に取り組んでいるものを指して「趣味」と言ってしまった瞬間に、そのものはただの「趣味」でしかなくなり、自分の外に放り出されてしまう気がする。

まあ自分は素人だしこの程度だよな、というようなはっきりとしたあきらめの色によって塗りつぶされ、心の中にそっと隠されていた憧れや欲望や執着は干からびてしまい、その抜け殻だけをいびつな形につなぎあわせて完成させられた「趣味」という名の作品を見ても、悲しみを感じこそすれ、ほっこりした気持ちになれるなんてのはあまりにも解脱がすぎると思う。


ぼくらはもっと自分の執着に対して執着したほうがよいし、他人の幸せに対しても明確に嫉妬したほうがよいのである。

そんなわけで、新幹線でのできごとを投稿して見事ラジオで取り上げられた隣の席の人物には心より嫉妬申し上げる。




ちなみに今日はぼくの誕生日ではない。

今でも、あきらめきれないこと。






まがいなりにもコピーライターとして「書くこと」を仕事にしていた時期があり、またそれを目指していた頃はできるだけ多くの本を読み、できるだけたくさんの文章を書いていたし、今でもこうやってブログをとおして文章を書き続けているわけで、「書くこと」自体はぼくにとって、とても大切な行為だということは間違いないと思う。



しかし、それじゃどのくらい「書くこと」に執着しているのかといえば、これはちょっとわからない。

「書くこと」を仕事にしていた、といっても、キャッチコピーというのは長くて10~20文字程度で、短い場合は、数文字だったりする。

もちろんコピーライターはキャッチコピーを書くのだけが仕事じゃないので、長めの文章を書く機会もあり、ぼくは割と理屈っぽい、長い文章をダラダラと書くのが芸風だったりしたが、それでも、そもそも誰も読みたいとも思っていないのが広告の文章だ、その長さ自体をギネス記録にして話題にする、というような企画でないかぎりは、読むに耐える量には限界がある。

それで、企画、という言葉が出てきたのでその話をするが、コピーライターの仕事というか、広告会社のクリエイターにとって大事なのは文章を書くことだけではなく、その商品のどんなところをどう表現すれば面白くなるのか、という企画自体を考えるところにあった。

こうなってくると、面白いアイデアを思いついたほうが勝ちなわけで、完全なる異種格闘技戦である。

いい文章なんて書かないけれども奇抜な発想ができるやつ、映画やマンガがめちゃくちゃ好きで大量に引き出しがあるやつ、クライアントや上司の好きなポイントを的確に見抜ける器用なやつなど、それぞれがそれぞれの得意技で戦いを挑むので、「書くこと」がいくら好きでも、そして得意でも、面白い仕事にありつけるわけではない。

まあそれでもぼくの企画の強みは「書くこと」に軸があって、実際には言葉がほとんど出てこない広告を作ったとしても、その元となるアイデアの多くは、ああでもない、こうでもないと文章を書きながら発見したものだった。

そこは今でもあまり変わっていなくて、何らかの文章を書きながら発想をふくらませたり、要点を整理して本当に大事なものを探したりしているけれど、しかしまあそれは多くの人がそうでないだろうか。

「書くこと」に執着する、というと何かもっと切実で、ちょっと病的で、それがないと生きていけないような状態をイメージする。

はたして、ぼくがそういう状態かといえば、一日のうちに何も文章を書かないときもあり、それにまったく耐えられないわけでもないので、そこまで執着していないようにも思う。

もちろん何も文章を書かないときでも、ツイッターで何かをつぶやこうとしたり、思いついたことをスマホのアプリにメモしたりするが、さてそれを「書くこと」への執着と言える可能性は低い気がする。


ではどのような状態が「書くこと」に執着しているのか考えてみるに、たとえば毎日数千字の長い文章を書き続けている人や、それをさらに推敲し続けられる人などがあると思う。

ぼくが過去に「書くこと」を仕事にしていたといっても、たいした量を書いていたわけではないし、また何度も自分の書いた文章を直しているうちにだんだん一体何を書きたかったのかわけがわからなくなってくるし、そうなってくると、もう細かい違いなんてどうでもよくなってきたりした。

そのうち、自分の仕事は面白い企画を考えることであって、枝葉のことに細かくこだわる必要はないのだ、と割り切り始め、そうなってしまうと「書くこと」自体へのこだわりは一気に弱くなっていき、別のことに関心が移っていってしまった。

なんとなく、ぼくはそうやって、取り組んできた何かに対して自信がなくなってくると、「今はこっちのほうが大事なのだ」と自分に言い聞かせるようにして別のことへと逃げていくような態度を取り続けているような気がする。

「今はこっちのほうがクリエイターにとって大事なのだ」「今はこっちのほうがビジネスにおいて大事なのだ」「今はこっちのほうが生きるうえで大事なのだ」と言い聞かせることで、何か1つのことににひたすら打ち込み続ける覚悟から、逃げてきたようにも思う。

もちろん、ひとつの領域にとらわれるのではなく、世の中の変化に対応して変わっていくことも必要だ。

市場において提供する価値の軸を、環境の変化に合わせてずらすことがマーケティングにおいては大事なのだとも教わってきた。

しかし、いくら変わり続けたところで、この世に終わりはない。

終わりのない変化に身をやつし続けたところで、納得のいく人生を送ることができる保証はない。


変化に対応できなければ生きていけない。納得していなければ生きている意味がない。

そんな矛盾の中でぼくらは生活をしている。

ある人は、積極的に変化し続ける自分を楽しむことで、その矛盾を解消しようとしている。

ある人は、変化にしたたかに対応しながら、うまく自分のこだわりも発揮させようとしている。

そしてぼくのようにどちらにも順応できずに、悩み続ける人もいる。

一体、何が正解なのだろう。


しかし、こういう考え方もあるかもしれない。


執着というものは、そうやって頭の中で整理したり、冷静にメリットとデメリットを考えたりすることで、簡単に手に入れたり、手放したりできるようなものではない。

自分ではもう捨てたい、あきらめたい、やめたい、と思っていても、ふと気を許すとそのことについてばかり考えてしまっている自分がいて、それでこそ執着なのである。

簡単にあきらめがつくものは、執着ではない。

そう考えてみると、ぼくはコピーライターという仕事、広告制作という仕事には強い憧れこそあったものの、執着はしていなかったのだろう(もちろん、あきらめたときのダメージは大きかったけれど)。

広告という仕事にも、今はこだわりはない。

どんな仕事をしていても、自分は自分だという気はする。

では「書くこと」は?

さて、やっぱりこのあたりは自分ではよくわからない。

だけど、明日からまた仕事が始まるのにこんな夜中までブログを書いている自分には、何か切実で、病的で、それがないと生きていけないような雰囲気も感じる。


結局、執着というものは、本人が望むか望まぬかは関係のないことなのだろう。

一生付き合う覚悟で、マイペースにやっていくしかない。


あまりはっきりしたことは、わからない。

ただ、それは、夢とか目標とかビジョンとか、そういった美しく立派な類のやつではなさそうだ、とは言えるような気がしている。

そしてぼくは別に残りの人生を、美しく立派に生きなければいけないわけでもないのだ。



無様なほど執着して、かっこわるい最期を迎えるぐらいのつもりでいたほうが、気楽というものである。