洗濯機が、こわれた。





いわゆるドラム式というやつである。



底にある大きなフィルターみたいなやつが外れて、見ると留め具がほとんど折れていたので、このフィルターを買い替えればよいだろうと思っていたのだが、妻が電話するとドラム自体がゆがんで壊れている可能性があるという。

そんなバカなことがあるか、ドラムをぶっ壊すような使い方するわけないだろうと思ったのだが、実際に診てもらったら本当にドラムの底がゆがんでいるらしい。

溶け残った洗剤が長年蓄積して、ドラム自体を少しずつゆがめていってしまったそうだ。

もう10年経っていて交換できる部品の在庫もないらしく、その日のうちに買いに行ったのだけれど、届くまでに数日かかるということで、週末にたまった洗濯物を妻が風呂場で手洗いしてくれたのだが、家事が得意な妻もさすがに寄る年波には勝てないようで、かなりきつい、もう握力が残っていない、と苦しんでいた。

わが家の家電はここのところ、折り目正しく、ひとつずつ壊れていく。

しかし共働きでなかなか時間がないので、新しいものを買う前まで間が空いてしまうことが多い。

そのたびに、妻は色々と工夫をして、その家電がなくてもなんとかなるようにしてくれていた。

電気ポットが壊れたときはマメに小鍋でお湯をわかせていたし、炊飯器が壊れたときは、圧力釜で米を炊いてくれていたのでむしろもちもちとおいしいごはんが食べられたし、電子レンジが壊れたときは、蒸し器をうまく使って温めてくれたので寒い冬場でもなんとかしのげた。

しかし洗濯というのはそうはいかない。

特に家族がいると量が多いし、スピードが必要だ、風呂場で毎日ゴシゴシやるのは時間と体力がないと無理だ。

これまでは妻の機転と努力のおかげで、家電なんてなくてもなんとかなるものだと思いはじめていたぼくだが、やはり現代人というものは明らかに積み重ねられた技術の上で暮らしていて、それがなければ毎日朝ごはんをしっかりと食べて、きれいなシャツを身に着け、いつも同じ朝早くに出勤することなどできない、とてももろい存在なのだとあらためて思った。



こういうことを考えるとき、ぼくはいつもちょっとした怒りのような感情をおぼえる。

というのも、あまりにもぼくらの社会というのは、誰でも毎日朝ごはんをしっかりと食べて、きれいなシャツを身に着け、いつも同じ朝早くに出勤できるものだということを前提にしすぎているように思うからだ。

ぼくは新入社員の頃、シワシワのシャツを着ていることを先輩からひどく注意されたのだけど、当時は毎日徹夜が続いていて、シャツにアイロンをあてる時間もなかったので、じゃあ一体どうすればいいんですかと食ってかかったことがある。

その先輩は事情を知って、それじゃしかたないよなと謝ってくれたけれど、意地悪な人なら、シャツにアイロンをあてる時間も確保するのも自己管理なのだと言い返すだろう。

しかしその自己管理の中に、家電が突然壊れることや、家族が急にケガや病気をすることや、あるいは個人的にあまりにもショックなできごとがあっていつものパフォーマンスが発揮できないことも、すべて含められてしまうような前提での社会というのはなかなか生きづらい。

それがわかっていても、ぼくらは配達物が時間どおりに届かないと怒り狂い、電車が遅れると悪態をつき、シワシワのシャツを着た新人を怒鳴りつけてしまうのである。

さて、もうすこしおだやかで、もうすこし余裕のある一日を送るようにしなきゃなと、反省することしかできない。



ぼくはあまり感謝という言葉に対して特別な思い入れがなくて、それはラーメン屋の壁にいつも書かれすぎているからだったり、どれだけきついことをやっても最後にそう言っておけば許されるのだという免罪符のような使われ方をしすぎているからだったりするのだけれども、もう少し別の言葉で、自分がいま与えられている環境や守られている状況に対して、敏感でいたいなあと思う。



敏感でいたからって、何か得するわけでもないが、しかし何かに気づくきっかけは増えるような気がする。

気づくことができれば、それに対して思案したり、行動を起こすこともできるのだ。

だから、あまり自分の置かれている状況を当たり前と思わず、すぐそばで起きていることに目を配り、耳を澄ませておきたい。




ああそういえば、最近、冷蔵庫がイヤな音を立てている気がするのだが・・・。

特別な自分になる、方法。




自分は一体何者なのかという、いわゆるアイデンティティの獲得に苦しむ時期というのは、たぶん多くの人がそうであるように、ぼくの場合も断続的にやってきていて、はじめは中学2年生だったと思うし、次は大学2年生の頃で、そのあとは社会人になりたてからの数年間、それから少し間があいて30代半ば、このブログを書き始めた頃である。



それじゃ今はそういう危機に陥っていないのかというと、まあそこまでひどい状態ではないと思うが、たとえば自分は今の会社で働いていなければ何の価値もない人間だよなとか、家族から見放されたらちゃんと働く意味はないよなとか、まあそういうことは時々思う。

いったい、ぼくらはどういう時に「ああ自分はいま何者かにはなっているな」という気持ちで満たされるのだろうか。


ひとつわかりやすいのは、他人からちやほやされることである。

いぬじんさんってステキ、いぬじんさんって才能ある、いぬじんさんがいないとやっぱりダメよね、と言われていればおそらくそれだけで自分が何か具体的な「何者」かというのがはっきりしていなくても、なんとなく自分は特別な存在だと思えるだろう。

東京コピーライターズクラブの年鑑に、誰の言葉だったか忘れたけど、ある審査員が「クリエイターは褒められないとやってられないのだ」というようなことを書いていて、だからこうやって賞を準備しているんですよという趣旨の文章なんだが、これは妙な話であって、すでに「何者」かが明確になっているクリエイターなら、その思うままに進んでいけばいいわけで、なぜ誰かからわざわざ褒められる必要があるのだという風にも考えられる。

しかし、実際は、クリエイターというのは大変孤独で、嫉妬深く、傷つきやすいので、ほおっておくとすぐにダメになってしまうことが多いので、まあ褒められるというのはとてもわかりやすい栄養なのである。

ただ、わかりやすいだけあって、無数の人たちがちやほやされたいあまりに同じところに群がるので、競争は激しくなる一方だし、そこでけちょんけちょんに破れてしまった場合、栄養を得るどころかボロボロになって、つぶれてしまう場合もある。

なので、ちやほやされる、ということにあまり頼るのは危険な姿勢ではある。


他に「何者」かでいられる方法としては、周りの人からどうのこうのと評価される以上に、何かひとつのことに必死に打ち込む、というのもあるだろう。

たとえば、周りから見たらどうでもいいような仕事や、嫌がられている仕事、地味な仕事でも、それにとにかく食らいついて、何らかの成果を上げることができれば、その達成感というのは地道に努力を続けてきたぶんだけ大きく、ああ自分はこの分野に関してだけは「何者」かと胸を張って言えるようになったなと思えるようになるだろう。

ただし、こういう行動というのは往々にして、誰からも評価されなかったり、むしろせっかく努力したのに、周りのまったく努力してない連中のほうが高く評価されるのを見て、強い怒りや嫉妬、そして失望が生まれる場合がある。

こうなってしまうと「何者」になるどころか逆効果で、自分の感情がコントロールできず、自分自身を苦しめることになってしまうから、これはこれで取り扱い注意なのである。


さて、こうなってしまうとお手上げのように感じるかもしれないが、実はもっとお手軽で、安全に、「ああ自分は特別な存在なのだなあ、それなりに何者かになれているのだなあ」と感じられる方法があって、それは自分についてしっかりと語ることである。

これは年を取ればとるほど効果的であって、ぼくのように平凡な人生を送ってきた場合でも、ああ自分はよくあの時に踏ん張ってヤバい道に外れなかったよなあとか、あの時になかなかすばらしい成果を出すことができたようなあとか、あの時あれ以上耐え続けていたら本当に命が危なかったかもしれないなあとか、振り返れば振り返るほど、自分という人物の人生はそれなりに豊かなものとなり、それなりに面白かったものとなり、それなりに「何者」かになっているように思えるのである。

ところで、自分語りを続けようと思ったら、語るべき体験というものを増やし続けていかないといけないわけで、だからぼくはこのつまらない現実の日々をなんとかして続けているのである。

特別な自分になるというのは、他でもない、自分にとって、自分という生き様自体が特別だと思えるかどうかであり、そこには他人は介在していないのだ。

しかし、人間、ひとりぼっちでは生きていけないものである。

だからぼくはブログで自分語りをして、これを奇特な方々に読んでもらうことで、なんとかアイデンティティを保っているわけである。




そんなわけで、今日言いたいことはとても明確で、特別な自分になりたかったら、ブログを書きなさい、ということである。

ひとつのことをやり続けるために、必要なこと。



ものすごい飽き性だ。



いろんなことに興味が向くのでいろいろ試し、ちょっとだけ夢中になって、しかしすぐに続かなくなってやめる。

じゃあぼくの周りでひとつのことをしっかり続けられる人はどんな人かといえば、


・一緒に取り組む仲間やパートナーがいて、お互いに支えあっている


・他に自分が胸を張って取り組めることがないので、別の可能性をあきらめている


・他の領域でもじゅうぶん可能性はあるが、優先順位を明確にした結果としてそれが継続されている


・何か異様な執着や満たしたい強烈な欲望があり、それに近づくための手段として続けられている


というような特徴があるような気がする。

どの人も、続けること自体を目的にしているというよりは、結果的に続いているだけのようにも見える。


そもそも、情報革命以降、変わることが前提となった世の中で、続けることが必ずしも良いことはなくなった。

ただなんとなく功徳が積めるから、なんとなく人間として成長できるから、という理由だけで、貴重な人生の時間を同じことばかりに費やすのはリスクが大きすぎる、というのも思う。

一方で、一定量経験値を得ないと本当の面白さが理解できないものや、それを超えないと新たな気づきを得られないレベルというのはあるようにも思う。

その境地に入ったとき、人は大きく満足するように思うし、もっと先へ行きたいとも願うようになるのだろう。


世の中に新たに体験できることは無限にある。

だから、ついつい世界中のあらゆるものに目を奪われてしまうのだけど、しかし忘れてはいけないのは、その世界に触れ、味わい、学び、悩み、頭打ちし、スランプに陥り、あきらめようとし、しかしあきらめきれずにまた取り組み、誰かに喜んでもらう経験をし、何かを悟ったつもりになり、調子に乗り、失敗し、どん底に落ち、またイチから学び直し、悩み、頭打ちし、スランプに陥り、あきらめようとし、しかしあきらめきれずにまた取り組み、誰かに喜んでもらう経験をし、何かを悟ったつもりになり、調子に乗り、失敗し、という繰り返しを体験するのは、他でもない生身のぼくらだということである。

生身で世界に直接触れ、その身体が丸ごと変化していく面白さ、これが得られる限りは、ぼくらは何かを続けていくことになるのだろう。



そう考えたら、何かを継続するとして、その対象は、自分の人生全部、というぐらい乱暴なとらえかたでもいいのではないだろうか。


他のことはさておき、人生は自分のものなのである。


誰にも叱られることはない。