特別な自分になる、方法。




自分は一体何者なのかという、いわゆるアイデンティティの獲得に苦しむ時期というのは、たぶん多くの人がそうであるように、ぼくの場合も断続的にやってきていて、はじめは中学2年生だったと思うし、次は大学2年生の頃で、そのあとは社会人になりたてからの数年間、それから少し間があいて30代半ば、このブログを書き始めた頃である。



それじゃ今はそういう危機に陥っていないのかというと、まあそこまでひどい状態ではないと思うが、たとえば自分は今の会社で働いていなければ何の価値もない人間だよなとか、家族から見放されたらちゃんと働く意味はないよなとか、まあそういうことは時々思う。

いったい、ぼくらはどういう時に「ああ自分はいま何者かにはなっているな」という気持ちで満たされるのだろうか。


ひとつわかりやすいのは、他人からちやほやされることである。

いぬじんさんってステキ、いぬじんさんって才能ある、いぬじんさんがいないとやっぱりダメよね、と言われていればおそらくそれだけで自分が何か具体的な「何者」かというのがはっきりしていなくても、なんとなく自分は特別な存在だと思えるだろう。

東京コピーライターズクラブの年鑑に、誰の言葉だったか忘れたけど、ある審査員が「クリエイターは褒められないとやってられないのだ」というようなことを書いていて、だからこうやって賞を準備しているんですよという趣旨の文章なんだが、これは妙な話であって、すでに「何者」かが明確になっているクリエイターなら、その思うままに進んでいけばいいわけで、なぜ誰かからわざわざ褒められる必要があるのだという風にも考えられる。

しかし、実際は、クリエイターというのは大変孤独で、嫉妬深く、傷つきやすいので、ほおっておくとすぐにダメになってしまうことが多いので、まあ褒められるというのはとてもわかりやすい栄養なのである。

ただ、わかりやすいだけあって、無数の人たちがちやほやされたいあまりに同じところに群がるので、競争は激しくなる一方だし、そこでけちょんけちょんに破れてしまった場合、栄養を得るどころかボロボロになって、つぶれてしまう場合もある。

なので、ちやほやされる、ということにあまり頼るのは危険な姿勢ではある。


他に「何者」かでいられる方法としては、周りの人からどうのこうのと評価される以上に、何かひとつのことに必死に打ち込む、というのもあるだろう。

たとえば、周りから見たらどうでもいいような仕事や、嫌がられている仕事、地味な仕事でも、それにとにかく食らいついて、何らかの成果を上げることができれば、その達成感というのは地道に努力を続けてきたぶんだけ大きく、ああ自分はこの分野に関してだけは「何者」かと胸を張って言えるようになったなと思えるようになるだろう。

ただし、こういう行動というのは往々にして、誰からも評価されなかったり、むしろせっかく努力したのに、周りのまったく努力してない連中のほうが高く評価されるのを見て、強い怒りや嫉妬、そして失望が生まれる場合がある。

こうなってしまうと「何者」になるどころか逆効果で、自分の感情がコントロールできず、自分自身を苦しめることになってしまうから、これはこれで取り扱い注意なのである。


さて、こうなってしまうとお手上げのように感じるかもしれないが、実はもっとお手軽で、安全に、「ああ自分は特別な存在なのだなあ、それなりに何者かになれているのだなあ」と感じられる方法があって、それは自分についてしっかりと語ることである。

これは年を取ればとるほど効果的であって、ぼくのように平凡な人生を送ってきた場合でも、ああ自分はよくあの時に踏ん張ってヤバい道に外れなかったよなあとか、あの時になかなかすばらしい成果を出すことができたようなあとか、あの時あれ以上耐え続けていたら本当に命が危なかったかもしれないなあとか、振り返れば振り返るほど、自分という人物の人生はそれなりに豊かなものとなり、それなりに面白かったものとなり、それなりに「何者」かになっているように思えるのである。

ところで、自分語りを続けようと思ったら、語るべき体験というものを増やし続けていかないといけないわけで、だからぼくはこのつまらない現実の日々をなんとかして続けているのである。

特別な自分になるというのは、他でもない、自分にとって、自分という生き様自体が特別だと思えるかどうかであり、そこには他人は介在していないのだ。

しかし、人間、ひとりぼっちでは生きていけないものである。

だからぼくはブログで自分語りをして、これを奇特な方々に読んでもらうことで、なんとかアイデンティティを保っているわけである。




そんなわけで、今日言いたいことはとても明確で、特別な自分になりたかったら、ブログを書きなさい、ということである。

ひとつのことをやり続けるために、必要なこと。



ものすごい飽き性だ。



いろんなことに興味が向くのでいろいろ試し、ちょっとだけ夢中になって、しかしすぐに続かなくなってやめる。

じゃあぼくの周りでひとつのことをしっかり続けられる人はどんな人かといえば、


・一緒に取り組む仲間やパートナーがいて、お互いに支えあっている


・他に自分が胸を張って取り組めることがないので、別の可能性をあきらめている


・他の領域でもじゅうぶん可能性はあるが、優先順位を明確にした結果としてそれが継続されている


・何か異様な執着や満たしたい強烈な欲望があり、それに近づくための手段として続けられている


というような特徴があるような気がする。

どの人も、続けること自体を目的にしているというよりは、結果的に続いているだけのようにも見える。


そもそも、情報革命以降、変わることが前提となった世の中で、続けることが必ずしも良いことはなくなった。

ただなんとなく功徳が積めるから、なんとなく人間として成長できるから、という理由だけで、貴重な人生の時間を同じことばかりに費やすのはリスクが大きすぎる、というのも思う。

一方で、一定量経験値を得ないと本当の面白さが理解できないものや、それを超えないと新たな気づきを得られないレベルというのはあるようにも思う。

その境地に入ったとき、人は大きく満足するように思うし、もっと先へ行きたいとも願うようになるのだろう。


世の中に新たに体験できることは無限にある。

だから、ついつい世界中のあらゆるものに目を奪われてしまうのだけど、しかし忘れてはいけないのは、その世界に触れ、味わい、学び、悩み、頭打ちし、スランプに陥り、あきらめようとし、しかしあきらめきれずにまた取り組み、誰かに喜んでもらう経験をし、何かを悟ったつもりになり、調子に乗り、失敗し、どん底に落ち、またイチから学び直し、悩み、頭打ちし、スランプに陥り、あきらめようとし、しかしあきらめきれずにまた取り組み、誰かに喜んでもらう経験をし、何かを悟ったつもりになり、調子に乗り、失敗し、という繰り返しを体験するのは、他でもない生身のぼくらだということである。

生身で世界に直接触れ、その身体が丸ごと変化していく面白さ、これが得られる限りは、ぼくらは何かを続けていくことになるのだろう。



そう考えたら、何かを継続するとして、その対象は、自分の人生全部、というぐらい乱暴なとらえかたでもいいのではないだろうか。


他のことはさておき、人生は自分のものなのである。


誰にも叱られることはない。

インターネットでの暮らしが、自由になってきた。

 



やれこれからは写真だ、これからは動画だ、これからはVRだとかいって、技術の進歩と人々の関心がものすごいスピードでもって、別のところに移っていってくれたおかげで、長い文章を書いてもやたらめったら中傷誹謗を受ける機会が減ってきたように感じる。

 

人間にはそれぞれに合った表現方法というものがあり、ぼくにとってはそれが上手か下手かはさておき文章がそうなので、いまは適度に読んでくれる人もいて、適度に無視してくれる人もいて、ちょうどいい湯加減になってきた気がする。

もちろんとても元気があって目立ちたい気分になったり、あるいはどうしても伝えたいことがあったりする場合は、他の手段を取ることもできるし、あるいはわざと過激な論調で書けばそれが達成される場合もあるだろうけど、それはまた別の話だ。

ではなぜ文章を書くのかといえば、最近思うのは、さっき言ったような人々や世の中の極端な関心の変化のスピードと、それにともなってものすごい勢いで発生し続ける情報の洪水に押し流されて死んでしまわないようにするためだ。

体力のある時はこの洪水の中を泳ぎ抜いて、波の先頭に乗って一気に遠くへと移動することもできるだろうけど、いつだってそういうわけにはいかない。

また最近は、個人という概念自体が想像の産物であって、変化し続ける共同体なり集合体なりを主人公ととらえたほうがわかりやすいという話も聞くが、そういう視点で世の中を見つめたとき、ぼくら1人1人の生命は、日々死んだり生まれたりを繰り返す細胞のひとつにすぎなくて、その生き死になんてどうでもよく見えてくるように思う。

少なくとも、情報の大海の中に、ちょろっとなんらかの記事を投げ入れて、それがちょろっと断片的に誰かに摂取され、すぐに忘れられ、何もなかったことになる、そんな状況の中では、ぼくらの存在というのは、本当にどうでもいいものなのだろう。

 

しかし、だからこそぼくは文章を書くのである。

 

自分は一体どのようなことについて疑問を持っていて、どのようなことを大切にしていて、そしてどのようなことについて期待をしているか、そういったことを書いていくことで、自分という存在と、泳いでいきたい方向をはっきりとさせるのだ。

自分のために、書くのだ。

 

もちろん、書くことは、自然科学からすればとても不正確で、非効率で、未成熟な手段だ。

本人の思いこみ抜きで、世界をありのままに描くことはできない。

ありのままだって?

そんなものはくそくらえだ。

ぼくが見た世界は、ぼくの思いこみという分厚いレンズを通して、大きく歪み、様々な色彩がつけられ、ありのままのそれとはまったく違うものとして映る。

そんな世界を写し取った文章を、そっくりそのまま受け取るほうがどうかしている。

しかし不自由な世界では、それはそっくりそのまま受け取られ、おまけにまた別のレンズを通してさらに歪められ、予想もつかない形で書き手のところに戻ってきて、凶暴な歯をこちらに向け襲いかかる。

 

もちろん、完全に自由な世界なんてないし、もしあったとしたらそれはとても退屈なものになるだろう。

適度に不自由で、適度に自由な世界、それがもっとも心地よい環境だろう。

少なくとも今ぼくが置かれているインターネットは、ちょうどそんな感じになってきたように思う。

 

 

だからこれから、ぼくはもっと自由に文章を書こうと思う。

書きたいときに、書けるぶんだけ、書きたいことを書こうと思う。

 

 

書くという不正確で、非効率で、未成熟な手段によって、人間という不正確で、非効率で、未成熟な存在の喜びをたっぷりと味わおうと思う。