ひとつのことをやり続けるために、必要なこと。



ものすごい飽き性だ。



いろんなことに興味が向くのでいろいろ試し、ちょっとだけ夢中になって、しかしすぐに続かなくなってやめる。

じゃあぼくの周りでひとつのことをしっかり続けられる人はどんな人かといえば、


・一緒に取り組む仲間やパートナーがいて、お互いに支えあっている


・他に自分が胸を張って取り組めることがないので、別の可能性をあきらめている


・他の領域でもじゅうぶん可能性はあるが、優先順位を明確にした結果としてそれが継続されている


・何か異様な執着や満たしたい強烈な欲望があり、それに近づくための手段として続けられている


というような特徴があるような気がする。

どの人も、続けること自体を目的にしているというよりは、結果的に続いているだけのようにも見える。


そもそも、情報革命以降、変わることが前提となった世の中で、続けることが必ずしも良いことはなくなった。

ただなんとなく功徳が積めるから、なんとなく人間として成長できるから、という理由だけで、貴重な人生の時間を同じことばかりに費やすのはリスクが大きすぎる、というのも思う。

一方で、一定量経験値を得ないと本当の面白さが理解できないものや、それを超えないと新たな気づきを得られないレベルというのはあるようにも思う。

その境地に入ったとき、人は大きく満足するように思うし、もっと先へ行きたいとも願うようになるのだろう。


世の中に新たに体験できることは無限にある。

だから、ついつい世界中のあらゆるものに目を奪われてしまうのだけど、しかし忘れてはいけないのは、その世界に触れ、味わい、学び、悩み、頭打ちし、スランプに陥り、あきらめようとし、しかしあきらめきれずにまた取り組み、誰かに喜んでもらう経験をし、何かを悟ったつもりになり、調子に乗り、失敗し、どん底に落ち、またイチから学び直し、悩み、頭打ちし、スランプに陥り、あきらめようとし、しかしあきらめきれずにまた取り組み、誰かに喜んでもらう経験をし、何かを悟ったつもりになり、調子に乗り、失敗し、という繰り返しを体験するのは、他でもない生身のぼくらだということである。

生身で世界に直接触れ、その身体が丸ごと変化していく面白さ、これが得られる限りは、ぼくらは何かを続けていくことになるのだろう。



そう考えたら、何かを継続するとして、その対象は、自分の人生全部、というぐらい乱暴なとらえかたでもいいのではないだろうか。


他のことはさておき、人生は自分のものなのである。


誰にも叱られることはない。

インターネットでの暮らしが、自由になってきた。

 



やれこれからは写真だ、これからは動画だ、これからはVRだとかいって、技術の進歩と人々の関心がものすごいスピードでもって、別のところに移っていってくれたおかげで、長い文章を書いてもやたらめったら中傷誹謗を受ける機会が減ってきたように感じる。

 

人間にはそれぞれに合った表現方法というものがあり、ぼくにとってはそれが上手か下手かはさておき文章がそうなので、いまは適度に読んでくれる人もいて、適度に無視してくれる人もいて、ちょうどいい湯加減になってきた気がする。

もちろんとても元気があって目立ちたい気分になったり、あるいはどうしても伝えたいことがあったりする場合は、他の手段を取ることもできるし、あるいはわざと過激な論調で書けばそれが達成される場合もあるだろうけど、それはまた別の話だ。

ではなぜ文章を書くのかといえば、最近思うのは、さっき言ったような人々や世の中の極端な関心の変化のスピードと、それにともなってものすごい勢いで発生し続ける情報の洪水に押し流されて死んでしまわないようにするためだ。

体力のある時はこの洪水の中を泳ぎ抜いて、波の先頭に乗って一気に遠くへと移動することもできるだろうけど、いつだってそういうわけにはいかない。

また最近は、個人という概念自体が想像の産物であって、変化し続ける共同体なり集合体なりを主人公ととらえたほうがわかりやすいという話も聞くが、そういう視点で世の中を見つめたとき、ぼくら1人1人の生命は、日々死んだり生まれたりを繰り返す細胞のひとつにすぎなくて、その生き死になんてどうでもよく見えてくるように思う。

少なくとも、情報の大海の中に、ちょろっとなんらかの記事を投げ入れて、それがちょろっと断片的に誰かに摂取され、すぐに忘れられ、何もなかったことになる、そんな状況の中では、ぼくらの存在というのは、本当にどうでもいいものなのだろう。

 

しかし、だからこそぼくは文章を書くのである。

 

自分は一体どのようなことについて疑問を持っていて、どのようなことを大切にしていて、そしてどのようなことについて期待をしているか、そういったことを書いていくことで、自分という存在と、泳いでいきたい方向をはっきりとさせるのだ。

自分のために、書くのだ。

 

もちろん、書くことは、自然科学からすればとても不正確で、非効率で、未成熟な手段だ。

本人の思いこみ抜きで、世界をありのままに描くことはできない。

ありのままだって?

そんなものはくそくらえだ。

ぼくが見た世界は、ぼくの思いこみという分厚いレンズを通して、大きく歪み、様々な色彩がつけられ、ありのままのそれとはまったく違うものとして映る。

そんな世界を写し取った文章を、そっくりそのまま受け取るほうがどうかしている。

しかし不自由な世界では、それはそっくりそのまま受け取られ、おまけにまた別のレンズを通してさらに歪められ、予想もつかない形で書き手のところに戻ってきて、凶暴な歯をこちらに向け襲いかかる。

 

もちろん、完全に自由な世界なんてないし、もしあったとしたらそれはとても退屈なものになるだろう。

適度に不自由で、適度に自由な世界、それがもっとも心地よい環境だろう。

少なくとも今ぼくが置かれているインターネットは、ちょうどそんな感じになってきたように思う。

 

 

だからこれから、ぼくはもっと自由に文章を書こうと思う。

書きたいときに、書けるぶんだけ、書きたいことを書こうと思う。

 

 

書くという不正確で、非効率で、未成熟な手段によって、人間という不正確で、非効率で、未成熟な存在の喜びをたっぷりと味わおうと思う。

必要な言葉が、必要なときに届くように。





人類が誕生して以来、今ほど、大量の言葉があふれかえっている時代は他にないだろう。



おまけに誰かが放った言葉は、また誰かが複製して、それがまた他の誰かに伝わって、一瞬のうちに膨れ上がる。

ぼくらは増え続ける言葉の洪水の中をうまく泳ぐどころか、流されてしまわないように何かに必死にしがみついておかないと、すぐに遠くへと飛ばされてしまって、さっきまでいったい自分は誰の言葉を聞こうと思っていたのか、あるいは誰に言葉を伝えようとしていたのか、すっかり記憶を失った状態で、見知らぬ砂浜に打ち上げられるのだ。

こんな騒々しい大海の中では、自分にとって本当に大切な言葉はどれなのか、見つけられるほうがどうかしている。

ぼくがこうやって書いている文章も、関係のない人にとっては邪魔なゴミでしかないし、ぼくだって大量のゴミの中を漁りながら、どこかに自分に宛てたメッセージが埋もれてやしないかと無駄な探し物を続けている。

潮の流れと同じように、ぼくらの人生も常に変わり続けていく。

いま、ぼくが必要としている言葉も、次の瞬間にはまったく要らないものになってしまっている。

せっかくのぼく宛ての何かが手に入ったとしても、もうとっくに知っていることや、あるいはもう二度と手に入らないものについての詳しい説明だったりすることもあるだろう。

そうやっているうちに、ぼくはだんだん疲れてきて、どの言葉にたいしてもあまり注意を払わなくなっていく。

いいよ、メールで送っておいてよ。

へえ、どうせググればわかるから今聞かなくても大丈夫だよ。

あー、もうだるいから長い文章読むのはやめておこうかな。


しかし、多くの人がすでに知っているように、本当に自分にとって大切な言葉というものは、ピンと耳をそばだてて、深く呼吸をして心を落ち着かせ、じっと待ち構えておかなければ、捕まえられないものだ。

いや、それでもちゃんと見つけられるかはあやしい。

それなのに、これだけの言葉の吹き荒れる中で、いったいぼくらはどうすればいいのだろう。


ぼくには、さっぱりわからない。

わからないなりに考えてみるに、それはやっぱり、自分から一番近いところにある声を聞くことなのじゃないかと思う。

自分の胸に手を当てて、いま自分はどんなことを感じているのか、幸せなのか、不幸せなのか、困っていることはないのか、やりたいことはないのか、じっと我慢しているけどだいぶ前から限界を迎えていることはないのか、あるいはちょっと飛ばしすぎていて速度を落としたいことはないのか、聞いてみる。

そうすれば、少しは自分が欲しいものが何なのか、気づくヒントがあるような気もする。

ないような気もする。


これも、わからないなりに思うのだけれど、本当に自分にとって必要な言葉なんて、そんなに簡単にわかるわけがない。

毎日、大量の言葉に触れるから、何かその中に大切なものが隠れているように感じるだけだ。

よくバーゲンで掘り出しもの市とかやってるけど、その中で本当に掘り出し物を見つけられたことがどれくらいあるだろうか。

どれもピンとこない、何か違うような気がする、だけどせっかくこんな良い機会があるから何か買って帰らなきゃもったいない、ただそう思って無理やり何かを選んでいるだけじゃないだろうか。

もちろん、そういう風にして出会えるものだってある。

だけど、たいていの場合は、本当に欲しいものが何なのか、自分自身だって気づいていないのだから、見つけられっこない。


なんだ、簡単なことじゃないか、とぼくは思う。

自分にとって本当に必要な言葉が、本当に必要なときに届くようにするにはどうすればいいか。


まずは、自分から問いかけてみればいいのだ。

自分自身の胸に。

自分のすぐそばの人々に。

そして、ちょっと遠くに人にも。


いま、どんな状態ですか。

ここは、どんなところですか。

そちらは、どこに向かっているのですか。


そうやっていれば少しずつ、自分のいまの場所と、これからどこに行こうとしているかが見えてくるだろう。

行き先を見てみれば、まだ真っ暗で、果たしてそこが進むべき方向かどうかはわからないけれども、しかし何かが聞こえてくるのじゃないだろうか。

ピンと耳をそばだてて、深く呼吸をして心を落ち着かせ、じっと待ち構えていればいいのじゃないだろうか。



そうすれば、少しは欲しい言葉が手に入る可能性があるような気がする。



ないような気もする。