地位でもなく、お金でもなく。



終電近くの電車に乗って、月曜日だったせいか車両は空いていたので首尾よく座れたのだけれど、途中から酔っ払いでおまけに体格の良い若者たちが3人わざわざぼくの座席の前に立って大きな声で話し始め、おまけにこっちにフラフラと寄りかかりそうになっている。



大声で無理やり聞かされる話の内容がまたまったく面白くない。

人生というのは帰りの電車でさえ簡単にはいかないものだなあと思いつつ、しかしこの人たちにはこの人たちのルールがあり、彼らの中では見知らぬ中年サラリーマンに気を使うよりも、電車の中で大声で先輩に対して後輩はいかに礼節を重んじる必要があるかについて議論することのほうが重要なのである。

いま彼らを動かすことができるのは、その先輩と後輩の関係性に関わる場合だけなのだろう。

ぼくは無意識のどこかで、人というのはだいたいはなんらかの権力か、あるいは一定のお金によって動くんじゃないだろうかと思っていたりするが、実はそんなことはまったくなくて、仮に3人を、ちょっと静かにさせて、ちょっとジッとさせるためにお金を握らせていても、なんの進展にもならない。

それは自分だってそうで、顧客や経営者の言うことは聞いても、何の関係もない人からのクレームに耳を貸すことはない。

そうやってぼくらは目に見えないルールを重んじて、目の前の他人を風景として扱っている。

そんな状態の人の行動を、全くの他人が変えるなんてのは、ひどく難しいことだ。



できるだけ多くの人に動いてもらうためには、どうすればいいか。

たぶん、できるだけ多くの人を知ることだろう。

その人の喜び、怒り、悲しみ、そういったことを知ることだろう。

その人が大切にしているものを知ることだろう。

そうすることで、その人は赤の他人ではなくなるからだ。



なんてことを思いながら電車に乗っているとそろそろ自分が降りる駅だ。

ガタイのいい若者たちに、すみません降ります、と頭を下げて、それでもなかなか動かないので押しのけるようにして立ち上がる。



人に関心を持つのも、難しいものだ。

ぼくが方向音痴である、理由。



学生時代をすごした神戸を、仕事の用事で最近訪れることが多い。



久しぶりに歩いた三宮はちょっとキレイになっていて、だけど大きくは変わっていなくて、相変わらず大学生ぐらいの若い人も多くて、外国人の観光客は増えたかもしれないけど、それも前から多かったので、やっぱり大きくは変わっていないような気がした。

気のせいかもしれないが、飲食店で流れてる音楽はR&Bが多くて、それもあんまりマニアックなやつじゃなくて、街ゆくお姉さんたちもお気に入りのいい感じにミーハーな楽曲ばかりだ。

いい感じ、というのは、本当はハードコアな音楽も知ってるんだけど、その上でやっぱりいいものはいいよね、という理解のもとで、気楽に、自由に楽しんでいる、という態度だろうか。

いい感じのメロディが流れる神戸は、いい感じにコンパクトな街で、海と山がどこからでも見えるから道に大きく迷うことはなくて、そのせいでぼくは方向音痴になったんだと思う。

神戸では、いつも自分の居場所を確認することができた。

海と山があって、好きな音楽があって、好きなレコード屋があって、好きな本があって、好きな服屋があって、好きな喫茶店があって、しかしそれほどたくさんの選択肢はなかったから、どこに向かえばいいか迷うことはあまりなかった。

若い人は、遊ぶか、勉強するか、その真ん中か、あるいはどっちもしない、ということしか選ばなかったから、もちろん色んな悩みはあったし、特に震災のときにみんなの価値観みたいなものは何か変わったような気もするけど、それでもめちゃくちゃに複雑に色んな考え方が往来する感じではなかった。

ぼくはちゃんと勉強もするし遊びもやるよ、というあたりにはじめはいたのだけど、そのうちあんまり勉強しなくなってきて、かといって真剣に遊びと向かい合うこともせずフラフラと過ごしていて、ついに大学も留年することになり、このままじゃまずいなと気づいた頃には大阪でコピーライターの勉強を始めていて、大学の用事以外で神戸に行くことが少なくなっていった。

大阪で働き出してからは、めったに行かなくなり、そのうち阪急電鉄神戸線で岡本や三宮に行くまでにかかる時間がひどく長く感じるようになり、たまに行ってもあまり変わりばえのしない神戸までわざわざ向かうことを、選ばなくなっていった。



もちろんそれは間違っていて、神戸だって、いつも変わり続けているのだ。

だけどぼくはとても急いでいた。

早くコピーライターにならねば、早く夢を達成しなければと、やたら急いでいた。

今だって、残りの人生の中でできることを少しでもやらなくちゃと急いでいる。

久しぶりに神戸の街にやってきても、用事を済ませたら、あわてて次の場所に移動している。

そんなやつの目には、神戸の街で起きている大きな変化は見えないだろう。

自分のことばかりで夢中なやつは、神戸という無数の共同体の集まりが、ものすごいスピードでくっついたり離れたりを繰り返しているのにも、気づかないだろう。



神戸から見える山と海は、人間に対して嫌でも自分たちが自然の一部であることを意識させる。

都市は自然の一部でしかなくて、人間は都市の一部でしかなくて、そしてぼくは人間の一部でしかない。

その中で、居場所があり、好きな音楽があり、好きな本があり、好きな喫茶店がある。

果たして、自分らしく生きるとか、自己実現とか、夢とか、ビジョンとか、そういうものを追いかけることだけが正しいのだろうか。

わからない。



まあ何かひとつ言えることがあるとすれば、ぼくはもうとっくの昔に、何かに向かって走り出してしまっているし、それを今さら止めたところで新たな居場所が見つかるわけでもないし、だからまたトアウエストでゆっくりカフェラテを楽しむようになるのはだいぶ先になるだろうな、ということぐらいだ。



人生なんて、ないものねだりの連続でしかないのだ。

進撃の、一般人。



進撃の巨人、というマンガは面白くて、それはいま自分の身の回りで起きてることと似ているなと思うところで、自分たちがそれで稼ぐのが当たり前だと思ってきたビジネスモデルはどんどん崩されていくし、しかしそこでの働き方や生き方しか知らないから外の世界が怖くて仕方がない。

もちろんこのままじゃダメだというわけで、たまに外の世界に調査に出される人たちがいるのだが、だいたいの人はすぐに痛い目にあってひいひい言いながら逃げ戻ってくるし、運よく何かの可能性を見つけて持って帰ってこれたとしても、壁の中でじっと動かないと決めこんでる人たちとなんら待遇は変わらない。

それどころか、危険を冒して外に飛び出すのだから色々とケガもするわけだが、それについては自己責任扱いなのだ。

さて、そうなると普通の思考としては、リスクしかない外への調査に出るなんてのはありえないわけで、いかに退屈で不安で窮屈であっても、壁の内部にじっととどまることしか選択肢はないのである。

ぼくはそうやって壁の中にずっと閉じこもっていたわけだが、壁の中にいては外の世界がどのようになっているのかは全くわからない。

わからなくてもよい、という考え方もあるが、それは、どうせ外の世界のことがわかったところで危険きわまりない場所であることに変わりはない、だったら知らなくても同じだ、という仮説を持っていることを意味する。

一方で、外の世界について知りたい、という人は、ひょっとしたら外の世界のことを知れば、実はいま思っているよりも状況を改善できる可能性が何か見つかるのではないだろうか、という仮説を持っているのである。

ぼくらは見知らぬ世界に対して持つ態度は、その2つしかないのである。



見知らぬ世界は、こわい。

今の自分の能力が全く役立たないかもしれない、危険な外に出ていくのはあまりにもこわいし、不安だし、失うものがたくさんありすぎる。

ぼくは、そうやって壁の中でじっとしてきた。

しかし、もはや残された時間はあまりない。

近いうちに壁は完全に打ち破られる。

ひょっとしたら一部の人は助かるかもしれない。

だがそんな万が一の可能性に祈るよりも、少しでもマシな選択肢はないのか。


そう考えるなら、やっぱり調査に出かけなきゃいけない。

恐ろしい外の世界に出かけ、信じられないような出来事に出会い、理解しがたい価値観に触れ、視野を広げていくしかない。

まあ、そこから運よく戻ってこられたとしても、再び壁の中で暮らすことを選択するのかどうかもわからないし、戻ること自体も選ばないかもしれなくて、それは全くわからない。

しかし、わからないからといって、座して終末を待つには、まだやり残したことが多すぎる。

それよりは、進撃するほうが、まだかろうじてマシな気がする。



たとえそれが完全なる消去法だとしても。