学生時代をすごした神戸を、仕事の用事で最近訪れることが多い。
久しぶりに歩いた三宮はちょっとキレイになっていて、だけど大きくは変わっていなくて、相変わらず大学生ぐらいの若い人も多くて、外国人の観光客は増えたかもしれないけど、それも前から多かったので、やっぱり大きくは変わっていないような気がした。
気のせいかもしれないが、飲食店で流れてる音楽はR&Bが多くて、それもあんまりマニアックなやつじゃなくて、街ゆくお姉さんたちもお気に入りのいい感じにミーハーな楽曲ばかりだ。
いい感じ、というのは、本当はハードコアな音楽も知ってるんだけど、その上でやっぱりいいものはいいよね、という理解のもとで、気楽に、自由に楽しんでいる、という態度だろうか。
いい感じのメロディが流れる神戸は、いい感じにコンパクトな街で、海と山がどこからでも見えるから道に大きく迷うことはなくて、そのせいでぼくは方向音痴になったんだと思う。
神戸では、いつも自分の居場所を確認することができた。
海と山があって、好きな音楽があって、好きなレコード屋があって、好きな本があって、好きな服屋があって、好きな喫茶店があって、しかしそれほどたくさんの選択肢はなかったから、どこに向かえばいいか迷うことはあまりなかった。
若い人は、遊ぶか、勉強するか、その真ん中か、あるいはどっちもしない、ということしか選ばなかったから、もちろん色んな悩みはあったし、特に震災のときにみんなの価値観みたいなものは何か変わったような気もするけど、それでもめちゃくちゃに複雑に色んな考え方が往来する感じではなかった。
ぼくはちゃんと勉強もするし遊びもやるよ、というあたりにはじめはいたのだけど、そのうちあんまり勉強しなくなってきて、かといって真剣に遊びと向かい合うこともせずフラフラと過ごしていて、ついに大学も留年することになり、このままじゃまずいなと気づいた頃には大阪でコピーライターの勉強を始めていて、大学の用事以外で神戸に行くことが少なくなっていった。
大阪で働き出してからは、めったに行かなくなり、そのうち阪急電鉄神戸線で岡本や三宮に行くまでにかかる時間がひどく長く感じるようになり、たまに行ってもあまり変わりばえのしない神戸までわざわざ向かうことを、選ばなくなっていった。
もちろんそれは間違っていて、神戸だって、いつも変わり続けているのだ。
だけどぼくはとても急いでいた。
早くコピーライターにならねば、早く夢を達成しなければと、やたら急いでいた。
今だって、残りの人生の中でできることを少しでもやらなくちゃと急いでいる。
久しぶりに神戸の街にやってきても、用事を済ませたら、あわてて次の場所に移動している。
そんなやつの目には、神戸の街で起きている大きな変化は見えないだろう。
自分のことばかりで夢中なやつは、神戸という無数の共同体の集まりが、ものすごいスピードでくっついたり離れたりを繰り返しているのにも、気づかないだろう。
神戸から見える山と海は、人間に対して嫌でも自分たちが自然の一部であることを意識させる。
都市は自然の一部でしかなくて、人間は都市の一部でしかなくて、そしてぼくは人間の一部でしかない。
その中で、居場所があり、好きな音楽があり、好きな本があり、好きな喫茶店がある。
果たして、自分らしく生きるとか、自己実現とか、夢とか、ビジョンとか、そういうものを追いかけることだけが正しいのだろうか。
わからない。
まあ何かひとつ言えることがあるとすれば、ぼくはもうとっくの昔に、何かに向かって走り出してしまっているし、それを今さら止めたところで新たな居場所が見つかるわけでもないし、だからまたトアウエストでゆっくりカフェラテを楽しむようになるのはだいぶ先になるだろうな、ということぐらいだ。
人生なんて、ないものねだりの連続でしかないのだ。