ぼくの、こわいもの。



年をとっても、いまだに、 こわいなあと思うもの


・大きなケガとか病気

・高い所

・目の検査でピュッと空気が発射されるやつ

・車の運転

・高速道路の人の少ないサービスエリアとかパーキングエリア

・知らない人に話しかけられること

・大きなトラックとか作業車

・ゴミ収集車のバリバリとゴミを砕いていく部分

・飛行機に乗り遅れること

・新宿

・東京の満員電車

・田舎の静かすぎる夜

・見知らぬ土地に無理やり行かされること

・見知らぬ人に無理やり会わされること

・夜道で急にめっちゃでかい声でくしゃみをするおっさん


むしろ年をとってから、こわいと思うようになったこと


・収入が減ること

・夜中に出歩くこと

・家族によくないことが起きること

・国際情勢が急に悪化すること

・アジアの大気汚染が拡大すること

・ひとりぼっちで働くこと

・いまだに将来の自分の可能性に賭けようとしていていやちょっと待てもうとっくの昔にピークすぎてるやんと気づくこと

・いまやりたいことをやり残して人生を終えること

・そのときに限って妙にネガティブなブログ記事書いた直後だったりすること

・なのであんまり後ろ向きな話ばかり書かないようにと気にしすぎること

・できることが減っていく中で一生懸命取り組まずに後悔すること


結局年をとってもこわいものはこわい

しかし何よりもお金をいっぱいもらうのが何よりもこわい

ああこわいこわい

停滞感が、大好物です。





長いあいだ、ずっと悩んでいた。




これまで、それなりにやりたいことはやってきたけれども、この数年は完全に停滞してしまっていた。

もちろんブログを通して自分の考えを書くことで、ぼくの中で「変わらず大切にしたいこと」を確認することはできたし、そのおかげで新しいことに挑戦する勇気を与えられていたのも確かだ。

しかしまあ新しいことにチャレンジするたびに、当然ながら失敗という名の成果が与えられることは多いし、それを繰り返していると本当にこれでいいのだろうかと(いくら自分のことが大好きなぼくであっても)自信がなくなっていくものである。

だけど答えはもうそこにあって、つまりぼくはそうやって悪あがきしてでもいいから、何か停滞してしまっていてモヤモヤしている状態から、少しでも先にものごとを進める、そのこと自体に強く関心を持っているのだ。

最近、ぼくがうれしいと思った瞬間を、いくつか挙げてみる。


・なかなか次のアクションが決まらない大会議が数ヵ月続いていたのだが、5人のコアメンバーだけで集まって打ち合わせをしたら、良いアイデアがたくさん生まれ、話が一気に進んだとき

・ある組織を作る計画を手伝っていて、その組織がいよいよ本当に稼働することになり、実際に部屋ができ、そこで何人もの人たちが働き始めているのを見たとき

・なかなかトイレで用を足そうとしない子供をなだめたりすかしたり苦労していたが、ある日急に自分からトイレに行くと言い出したとき

・そして、このような瞬間をうれしいと思う自分自身に気づいたとき


若い頃はこういうことをうれしいとはあまり思わなかった。

それよりも、自分が良いアイデアを思いつくことや、それが作品となって世の中に発信されることのほうがずっと重要だった。

イデアによって、自分自身の承認欲求や自尊心が満たされるほうが大事だった。

だからといって、いまのぼくにはそういった欲望がなくなってまるで聖人か仙人みたいな境地に達したというわけではまったくない。

興味のありかが変わっただけだ。

なにかがひとつ先に進むとき、そしてそのためのアイデアを誰かが思いついたとき、みんなとてもいい顔になる。

どんよりしていた目に光がやどり、静かだった部屋がみんなの声で騒々しくなり、退屈な空気が一気に吹き飛ぶ。

ぼくはあのときの気持ちよさがたまらなく好きだ。

中毒といってもいいかもしれない。

だけど、その快感に出会うためには残念ながら自分ひとりではダメなのだ。

停滞を打破する喜びを得るには、停滞が起きている状況と、それにモヤモヤしているメンバーと、しかしなんとかしなくてはという怪しいガスのような不穏な空気が必要なのだ。

あらゆる冒険活劇に、それらが絶対に必要であるように。



ぼくはこの冒険に必要なアイテムや、武器や、パーティや、欲しい地図を探し、用意する人になりたいとだんだん思うようになってきた。

自分でできないことは誰かもっと得意な人に頼めばいい。

やり方はなんだっていい。

そういう世界ののぞき方を一度手に入れると、世の中における、だいたいの停滞状況が、全部やりごたえのありそうなゲームフィールドに見えてくるのである。

とは言いながら、まあ飽き性なぼくのことだから、この先また新しいレンズに取り替えることもあるのだろう。



もし、また新たな停滞感に出会えたら、の話ではあるけれども。

アレを、ナニして。



年をとったせいなのか、忙しくて睡眠時間が短くなったせいなのか、グーグルに記憶力の大部分を移管してしまったせいなのか、たぶんその全部なのだろうけれど、すぐに正確にそれを指し示す言葉や人の名前が出てこないことが増えた。



気がつくと、年をとった政治家みたいに「いわゆるアレで・・・」「その方向でナニして・・・」と言っている自分がいる。

それでも通用しているのは普段の仕事がある程度標準化されていたり、共通認識を持って進行しているからなのだろう。

全く知らない人に急に、すみませんアレについてなんですがね、その、ちょっとナニしませんか、なんて話しかけることはまずない。

そのうえ、アレとかナニとかいうのは言葉が出てこない場面だけでなく、ストレートに言うとキツく聞こえたり、あるいは説明が面倒だったりするときに便利だったりするので、余計に助長される。

すみません実は弊社の担当の人間がインフルエンザをアレして自宅でナニしてまして、もしアレでしたら来週までナニしてもらえるとありがたいです、という具合である。

そうやって便利に使っているうちに、ちゃんと言わなきゃいけないことまでナニするようになり、正確な言葉を使う意識が弱まっていく。

これは決して悪いことだけではない、という見方もあるだろう。

仕事や家事と同じようにコミュニケーションも省略していくことで物事を進めるスピードを上げたり、効率化することができる。

ナマツー、カラツー、ポテツー、エダマメワン、のようなものである。

省略していった先に待つのはその機能自体の消滅である。

生産性がどうとか投資効率がどうとかばかりが注目される世の中だから、さまざまなコミュニケーションとそこで使われている言葉が消滅するスピードはどんどんナニしていくのだろう。

そのこと自体を良いか悪いか評価するのもアレだが、大事なことは、そうやってコミュニケーションのナニが加速度的にアレしていくことだ。

たとえば敬語や丁寧語が使われなくなったり、常用漢字がどっと減ったり、おじぎをしたり優先座席をナニしたりする行為もナニしていくのかもしれない。

人の心のあり方もアレしていくかもしれない。

相手の気持ちをナニして回り道であっても丁寧に物事を進めることよりも、できるだけいろんなアレを省略して素早い問題解決をアレすることのほうが人間として素晴らしいと思われるような世の中になっていくかもしれないし、すでにナニしてしまっているかもしれない。

ひょっとするとそうやって、人間のアレと機械や人工知能のアレはどんどんナニしてゆき、そうやって両者の境はゆるやかにアレして、地球はひとつの知能生命体へとナニしていくのかもしれない。



さて、ぼくらの「人間らしさ」は一体どこへとアレしていくのだろう。



アレがナニしてナニするアレは、アレでナニなアレなのだろうか