40年間生きてきて、まだ解決できていないこと。





なんとなくこうすればいいんじゃないかというイメージはあるが、根本的な解決策はよくわからないもの


・本を読む時間をどうやって確保するか

・運動する時間の確保

・勉強する時間の確保

・切った爪を格納できないタイプの爪切りで切った爪を床に飛び散らせない方法

・ひととおり散髪し終えて確認したときにもっと短く切ってほしいことを気分よく受け入れてもらえる伝え方

・および「このぐらいの長さがベストです」とキリッと反論された際にそれでも切ってほしいことを気分よく受け入れてもらえる伝え方

・およびそれをうまく伝えるのがめんどくさくなって散髪難民化することへの対応策

・満員電車でやたら身体をガチガチに固くして動こうとしない人にちょっとだけ位置をずらしてもらうソフトな身体の押し方や声のかけ方

・満員電車でぼくの肩を支えにして必死にゲームする人にいじわるするもっとも効果的な方法

・満員電車でまずいこのままじゃ降りれない「すみません降ります!」と叫ぶベストなタイミング

・そもそも満員電車に乗らずに生活する方法

・少ない小遣いでも楽しく生活する方法

・お酒を飲まない理由を毎回説明しなきゃいけないめんどくささを回避する方法

・でもお酒飲む人に注いでやらなきゃいけないのを回避する方法

・最終的に飲んでない自分が一番ベラベラしゃべって場の空気を悪くするのを回避する方法

・毎日機嫌よく生活する方法

・仕事と家庭のどちらでも機嫌よく生活する方法

・といいつつやたら仕事が忙しくて家庭生活における余裕がなくなった場合のメンタルの保ち方

・でもそういう場合は家族みんなが無理すれば意外となんとかなるがその後に全員ドッと疲れが出る時のメンタルの保ち方

・給料が下がったときの家族への伝え方

・世間的には給料アップみたいなニュースが流れてるときの給料ダウンのお知らせの仕方

・うるせえ給料のためだけに働いてるんじゃねえガタガタぬかすな!と言いたくてもまあ基本的には給料のためだよねと思ってしまって強気になれない場合のプライドの保ち方

・すみません結局は給料を上げる方法を教えてください

・でもそのためには会社が儲からないとねとか大阪が元気にならないとねとかすぐに神の視点になってしまって目の前のことに集中できない自分をなんとかしてください

・じゃあ副業だとか働きがいより生きがいだとかまたわけわかんない方向にすぐに逃げたくなる自分もなんとかしてください

・あと子供たちを寝かしつけてからやりたいことをやろうと思ってたのに誤って自分を寝かしつけてしまうのもなんとかしてください

・1日がすぎるスピードがどんどん速くなるのもなんとかしてください



以下は全く解決策がわからないもの


・いくら食べても太らないのをなんとかしたい

・自分たちは70歳になっても働き続けないと生きていけないのはなんとかならんのか

・そう考えると年寄りに電車の席を譲る気にもならない自分の心の狭さもなんとかならんのか

・自分は働くのは好きなのでほっといても機嫌よく働くのになぜいろんな方面からハッパをかけられなきゃならんのか

・たったひとつのツイートが世界経済に影響を与えるのを見て真面目に働くことがバカバカしくなるのはなんとかならんのか

・バカバカしいと思って働くより毎日機嫌よく働くほうがずっと楽しいと思うのだがなんとかならんのか

・色んなことがなんともならんのに日々成長する子供の笑顔がなんともいえずかわいらしいのはなんとかならんのか

・自分の力ではどうにもならないことばかり不安に感じるのはなんとかならんのか

・なんとかならんのか

妻と夫は、どっちが大変か。




久しぶりに読んだブログの感想を書く。



nanikagaaru.hatenablog.com

夫婦ってお互い、自分が相手にやってあげたことは覚えていても、相手がやってくれたことは過小評価してしまいます。だから適切なシェアなんて絶対できない。お互いがお互いに不満を持ち続ける、それが夫婦の家事分担なのです、マジで。

id:Nanimonaiさんがある本をお読みになったときの感想だ。


なぜ家事のシェアは適切に行うことができないのだろう。

おそらく、家事というものは、そもそも「シェア」するものではないからなのだろう。

これはあなたで、これは私で、というように分担を決めて担当することができる場合というのは、意外と少ない。

そういった静的なポジショニングが成立するのは平時、すなわち何も問題が発生しない、きわめて稀な状況に限られる。

家庭生活のうちのほとんどはアクシデントで構成されている。

ある朝突然子供が謎の病気で発熱したり、妻も感染して体調を崩したり、そんなことも知らずに夫はしたたかに酔って深夜に帰宅したり、いつも何らかの問題が発生するのである。

こういう状況において、食事を作るのは妻の担当だから、食器を洗うのは夫の担当だから、などと固定されたルールを厳密に運用していてはパニックになる。

シェア、なんてオシャレなものではなくて、動けるほうが動く、が鉄則である。


しかし難しいのが、この鉄則に従って各自が動いていると、それはそれで不都合が生まれる。

「動けるほう」がかたよってくるのだ。

夫婦のうちよく気が付き、生活能力の高い側ばかりが動くことになってしまう。

そうすると、結局どちらが大変か、どちらが苦労しているか、という見方から逃れることはできない。


夫婦間での「どちらが大変か」問題の解決を難しくしているのは、そこに第三者が不在だからというのもあるだろう。

お互いに自分のほうが大変だということをいくら主張しあっても、それをジャッジできる人間がいないのである。

だから夫婦はお互いに自分のほうが大変だと心の中で決め込んで自分を納得させるしかないのだ。


もちろんそうではないケースもある。

たとえば、一切家事をしない夫がそうだ。

この場合、夫はまったく家事をしないので、家事に関して「どちらが大変か」といえば妻のほうが大変なのは誰の目にも明らかだ。

家事に関してはいつも妻が大変であり、苦労しており、したがって労わるべき存在だということがはっきりしている。

おまけにたまに夫が家事を手伝ったりすれば、それだけで夫の貢献も高く評価されるのである。

あるいは夫婦のどちらかが完璧主義者で、家事については全部自分で取り仕切らないと気が済まない、という家庭の場合も「どちらが大変か」というのは明白である。

いずれにしても「この家においてどちらが大変か」を誰が見てもはっきりわかる状態にしておけば、無用な争いは避けられるような気がする。


ただしこの場合でも、明らかに大変でないほうの人間が、どうせ自分は大変じゃないんだからと開き直ってしまって、本来はできるようなことも手を抜いたりしてしまうこともあるだろうし、逆に大変なほうの人間が、自分が一番大変なのだから何を言ってもいいのだという態度を取ればそれはそれで新たな問題が生まれてしまう。


このあたりは夫婦や家庭の数だけ問題の種類が異なるだろうし、解決方法も違うのだろうから何とも言えない。

むしろ自分たちにとって好ましい状態とは何なのかを、お互いに、永遠に考え続けることが、夫婦なり家庭なのかもしれない。


もちろん、妻も夫も、どちらも大変ではない状況がずっと続けばそれが一番良いのだろう。

こちらは池田仮名(id:bulldra)さんのエントリにあるような魔法の道具がもっと増えていけば解決されるのかもしれない。

bulldra.hatenablog.com

全自動洗濯機がでてきても、洗濯物を干して、乾いたらたたんで収納する必要がある。それらは面倒である一方で、作業の主体は人間であり、洗濯機はあくまで補助に過ぎないといった主従関係を成立させていた。しかしながら、全自動洗濯乾燥機によって「干す」という工程はなくなり、たたんでタンスにしまう作業の自動化さえも実用化に近づいているという。


機械や人工知能の進化に対して色々と不安に感じることもあるけれども、ぼくとしては自動洗濯物たたみ機や自動料理機、自動子供寝かしつけ機、自動ゴミ分別捨て機、自動スーパー買い物機などの少しでも早い実現を待ちたいものである。

自分が無害なおっさんであることを伝えるのは、難しい。



平日の昼間、クリスマスプレゼントにもらったラジコンカーをどうしても公園で走らせたいと子供が言うので一緒に行った。



その日はぼくは休暇を取っていたのだが、世間的にはまだみんな働いている普通の平日の昼間だったので、あまり人もいなかった。

しばらくラジコンカーを走らせて遊んでいたら、子供が急にウンチをしたいからトイレに行くと言い出した。

トイレは公園の少し奥のほうにあって、そこにはブランコや滑り台や砂場があり、ちょっと目が行き届きにくい場所だ。

昼間だといってもなんとなく物騒なので、ぼくは子供に付いていって、トイレの前でラジコンカーを預かって、外でじっと立って待っていた。

退屈なので周りを見回すと、小さい子供と若い母親たちが数人いるだけで、大人の男はぼくだけだった。

これはなかなか危ない感じの人間に見えかねないと思った。

ぼくはいま、平日の昼間から働きもせずに、子供たちとその母親たちしかいない公園のトイレの前でじっと立ち尽くしている中年のおっさんなのだ。

状況は極めて不利である。

普段は平日の昼間に公園に来ることはないから、周りには自分が知っている人物は誰もいない。

おまけに家の鍵以外何も持たずに外出したから、身分を証明できるものも一切持っていない。

何の社会資本も持っていない、危険な状況である。

ただ手にしたラジコンカーとリモコンだけが、ぼくのいまの状況を伝えることができる命綱だ。

しかしそれも、頭のおかしいおっさんがラジコンを大事そうに抱えて突っ立っているのだと見ようものなら、十分にそう見えるのである。

ぼくは焦った。

焦って、トイレに向かって、まだ出ないのかと大きな声をかけた。

これがいけなかった。

母親たちの何人かがこちらを見たような気がした。

何あのおっさん、いまトイレに向かって何か叫んでたんだけど。

彼女たちはきっとそう思ったに違いない。

怪しいと思ったに違いない。

ぼくはますます焦って、もう一度、ウンチ出たかと大きな声でトイレに向かって叫んだ。

ところがまだ子供は返事をしない。

まずい。

これでは完全に、ぼくは真っ昼間から仕事もせずに、ラジコンカーを大事そうに抱きかかえ、公衆便所の前に突っ立ったまま、ウンチウンチと叫んでいる、本当に危ないおっさんである。

すっかり取り乱したぼくはラジコンカーを抱きかかえたままトイレのドアまで駆け寄り、ドアをノックして、まだウンチ出ないのかと、いやもう出ても出なくてもどっちでもいいからとにかくそこにいることを証明してくれ、そこにウンチをしている子供がいて、ぼくはそれをただ待っているだけの善良な一市民であることを証明してくれと懇願するようにノックを続けた。

しかし子供というのはそんなにうまく言うことを聞いてくれるものではない。

ようやく用を足し終えて子供がトイレから出てきた頃には、ぼくは憔悴しきっていた。



自分を実際よりも良く見せようとするのもなかなか難しいけれど、年を取ると、自分が実際に無害な人間だということを伝えるのが難しくなってくるような気がする。

別に昼間の公園でなくても、たとえば若い人ばかりの職場で仕事をする時には、ぼくは決して何か偉そうなことを言おうとはしていない、上から目線で何かめんどくさい話をしようとなんて決して思っていない、ということを発信するのに骨が折れるし、向こうも向こうで、このおっさんを一体どのように扱えばいいのかわからない、と明らかに困っていたりもするのである。

これは今までは出くわしたことのない種類の問題である。

だから、ぼくはこの問題に対しての答えを何も持ち合わせていない。

持ち合わせていないなりに一つ仮説があって、それは「できるだけ同じ場所にとどまらない」ということである。

おっさんというのは若い人よりも体の中で流れている時間のスピードが遅いので、そこに存在するだけで妙に質量があり、口から発する言葉も毛穴から放出される熱やらガスやらもやたらと濃厚である。

だから、一か所にじっととどまるのではなく、必要なことをサッと済ませたらサッと退場し、別のところへとサッと移動し、またそこで用事をサッと済まして、サッと去る。

これを心がけていれば、他人に迷惑をかけない、おっさんにしてはまずまず清潔感のある人間である状態を保つことができるような気がする。

なんとなく周りを見ていると、ぼくが好感を持っているおっさんというのはそういうことを実行しているように見える。


おっさんというのはできるだけ実体を持たず、概念的な存在になっていくべきなのだろう。

周りからあのおっさんってほんと変わってるよね、とか、でもおっさん最近陽気だよね、とか、そういう他人が語る形で立ち上ってくるような、蜃気楼のようなおっさんになるのがぼくの理想である。



しかしその道のりは大変険しそうである。