妻と夫は、どっちが大変か。




久しぶりに読んだブログの感想を書く。



nanikagaaru.hatenablog.com

夫婦ってお互い、自分が相手にやってあげたことは覚えていても、相手がやってくれたことは過小評価してしまいます。だから適切なシェアなんて絶対できない。お互いがお互いに不満を持ち続ける、それが夫婦の家事分担なのです、マジで。

id:Nanimonaiさんがある本をお読みになったときの感想だ。


なぜ家事のシェアは適切に行うことができないのだろう。

おそらく、家事というものは、そもそも「シェア」するものではないからなのだろう。

これはあなたで、これは私で、というように分担を決めて担当することができる場合というのは、意外と少ない。

そういった静的なポジショニングが成立するのは平時、すなわち何も問題が発生しない、きわめて稀な状況に限られる。

家庭生活のうちのほとんどはアクシデントで構成されている。

ある朝突然子供が謎の病気で発熱したり、妻も感染して体調を崩したり、そんなことも知らずに夫はしたたかに酔って深夜に帰宅したり、いつも何らかの問題が発生するのである。

こういう状況において、食事を作るのは妻の担当だから、食器を洗うのは夫の担当だから、などと固定されたルールを厳密に運用していてはパニックになる。

シェア、なんてオシャレなものではなくて、動けるほうが動く、が鉄則である。


しかし難しいのが、この鉄則に従って各自が動いていると、それはそれで不都合が生まれる。

「動けるほう」がかたよってくるのだ。

夫婦のうちよく気が付き、生活能力の高い側ばかりが動くことになってしまう。

そうすると、結局どちらが大変か、どちらが苦労しているか、という見方から逃れることはできない。


夫婦間での「どちらが大変か」問題の解決を難しくしているのは、そこに第三者が不在だからというのもあるだろう。

お互いに自分のほうが大変だということをいくら主張しあっても、それをジャッジできる人間がいないのである。

だから夫婦はお互いに自分のほうが大変だと心の中で決め込んで自分を納得させるしかないのだ。


もちろんそうではないケースもある。

たとえば、一切家事をしない夫がそうだ。

この場合、夫はまったく家事をしないので、家事に関して「どちらが大変か」といえば妻のほうが大変なのは誰の目にも明らかだ。

家事に関してはいつも妻が大変であり、苦労しており、したがって労わるべき存在だということがはっきりしている。

おまけにたまに夫が家事を手伝ったりすれば、それだけで夫の貢献も高く評価されるのである。

あるいは夫婦のどちらかが完璧主義者で、家事については全部自分で取り仕切らないと気が済まない、という家庭の場合も「どちらが大変か」というのは明白である。

いずれにしても「この家においてどちらが大変か」を誰が見てもはっきりわかる状態にしておけば、無用な争いは避けられるような気がする。


ただしこの場合でも、明らかに大変でないほうの人間が、どうせ自分は大変じゃないんだからと開き直ってしまって、本来はできるようなことも手を抜いたりしてしまうこともあるだろうし、逆に大変なほうの人間が、自分が一番大変なのだから何を言ってもいいのだという態度を取ればそれはそれで新たな問題が生まれてしまう。


このあたりは夫婦や家庭の数だけ問題の種類が異なるだろうし、解決方法も違うのだろうから何とも言えない。

むしろ自分たちにとって好ましい状態とは何なのかを、お互いに、永遠に考え続けることが、夫婦なり家庭なのかもしれない。


もちろん、妻も夫も、どちらも大変ではない状況がずっと続けばそれが一番良いのだろう。

こちらは池田仮名(id:bulldra)さんのエントリにあるような魔法の道具がもっと増えていけば解決されるのかもしれない。

bulldra.hatenablog.com

全自動洗濯機がでてきても、洗濯物を干して、乾いたらたたんで収納する必要がある。それらは面倒である一方で、作業の主体は人間であり、洗濯機はあくまで補助に過ぎないといった主従関係を成立させていた。しかしながら、全自動洗濯乾燥機によって「干す」という工程はなくなり、たたんでタンスにしまう作業の自動化さえも実用化に近づいているという。


機械や人工知能の進化に対して色々と不安に感じることもあるけれども、ぼくとしては自動洗濯物たたみ機や自動料理機、自動子供寝かしつけ機、自動ゴミ分別捨て機、自動スーパー買い物機などの少しでも早い実現を待ちたいものである。

自分が無害なおっさんであることを伝えるのは、難しい。



平日の昼間、クリスマスプレゼントにもらったラジコンカーをどうしても公園で走らせたいと子供が言うので一緒に行った。



その日はぼくは休暇を取っていたのだが、世間的にはまだみんな働いている普通の平日の昼間だったので、あまり人もいなかった。

しばらくラジコンカーを走らせて遊んでいたら、子供が急にウンチをしたいからトイレに行くと言い出した。

トイレは公園の少し奥のほうにあって、そこにはブランコや滑り台や砂場があり、ちょっと目が行き届きにくい場所だ。

昼間だといってもなんとなく物騒なので、ぼくは子供に付いていって、トイレの前でラジコンカーを預かって、外でじっと立って待っていた。

退屈なので周りを見回すと、小さい子供と若い母親たちが数人いるだけで、大人の男はぼくだけだった。

これはなかなか危ない感じの人間に見えかねないと思った。

ぼくはいま、平日の昼間から働きもせずに、子供たちとその母親たちしかいない公園のトイレの前でじっと立ち尽くしている中年のおっさんなのだ。

状況は極めて不利である。

普段は平日の昼間に公園に来ることはないから、周りには自分が知っている人物は誰もいない。

おまけに家の鍵以外何も持たずに外出したから、身分を証明できるものも一切持っていない。

何の社会資本も持っていない、危険な状況である。

ただ手にしたラジコンカーとリモコンだけが、ぼくのいまの状況を伝えることができる命綱だ。

しかしそれも、頭のおかしいおっさんがラジコンを大事そうに抱えて突っ立っているのだと見ようものなら、十分にそう見えるのである。

ぼくは焦った。

焦って、トイレに向かって、まだ出ないのかと大きな声をかけた。

これがいけなかった。

母親たちの何人かがこちらを見たような気がした。

何あのおっさん、いまトイレに向かって何か叫んでたんだけど。

彼女たちはきっとそう思ったに違いない。

怪しいと思ったに違いない。

ぼくはますます焦って、もう一度、ウンチ出たかと大きな声でトイレに向かって叫んだ。

ところがまだ子供は返事をしない。

まずい。

これでは完全に、ぼくは真っ昼間から仕事もせずに、ラジコンカーを大事そうに抱きかかえ、公衆便所の前に突っ立ったまま、ウンチウンチと叫んでいる、本当に危ないおっさんである。

すっかり取り乱したぼくはラジコンカーを抱きかかえたままトイレのドアまで駆け寄り、ドアをノックして、まだウンチ出ないのかと、いやもう出ても出なくてもどっちでもいいからとにかくそこにいることを証明してくれ、そこにウンチをしている子供がいて、ぼくはそれをただ待っているだけの善良な一市民であることを証明してくれと懇願するようにノックを続けた。

しかし子供というのはそんなにうまく言うことを聞いてくれるものではない。

ようやく用を足し終えて子供がトイレから出てきた頃には、ぼくは憔悴しきっていた。



自分を実際よりも良く見せようとするのもなかなか難しいけれど、年を取ると、自分が実際に無害な人間だということを伝えるのが難しくなってくるような気がする。

別に昼間の公園でなくても、たとえば若い人ばかりの職場で仕事をする時には、ぼくは決して何か偉そうなことを言おうとはしていない、上から目線で何かめんどくさい話をしようとなんて決して思っていない、ということを発信するのに骨が折れるし、向こうも向こうで、このおっさんを一体どのように扱えばいいのかわからない、と明らかに困っていたりもするのである。

これは今までは出くわしたことのない種類の問題である。

だから、ぼくはこの問題に対しての答えを何も持ち合わせていない。

持ち合わせていないなりに一つ仮説があって、それは「できるだけ同じ場所にとどまらない」ということである。

おっさんというのは若い人よりも体の中で流れている時間のスピードが遅いので、そこに存在するだけで妙に質量があり、口から発する言葉も毛穴から放出される熱やらガスやらもやたらと濃厚である。

だから、一か所にじっととどまるのではなく、必要なことをサッと済ませたらサッと退場し、別のところへとサッと移動し、またそこで用事をサッと済まして、サッと去る。

これを心がけていれば、他人に迷惑をかけない、おっさんにしてはまずまず清潔感のある人間である状態を保つことができるような気がする。

なんとなく周りを見ていると、ぼくが好感を持っているおっさんというのはそういうことを実行しているように見える。


おっさんというのはできるだけ実体を持たず、概念的な存在になっていくべきなのだろう。

周りからあのおっさんってほんと変わってるよね、とか、でもおっさん最近陽気だよね、とか、そういう他人が語る形で立ち上ってくるような、蜃気楼のようなおっさんになるのがぼくの理想である。



しかしその道のりは大変険しそうである。

最近、誰もがマーケティングとコミュニケーションに関する話ばかりをしているような気がする。



ここのところずっと妙だなと思っていること)


・最近、誰もがマーケティングとコミュニケーションに関する話ばかりをしているような気がする

・多くの人が、何をすれば儲かるのか、何を発信すれば注目されるのか、そういうことばかりを話している

・そういう人はだいたい熱心に語り合っている

・ブログでどうやれば儲かるのかという話で盛り上がっている人たちもそうだ

一億総クリエイターであり、一億総マーケターである時代はとっくに到来して久しいのだ

・それこそは情報革命がもたらした社会の進化であり、メディアの解放によって、インターネットどころかこの世界のほとんどすべてが、人々が自由にものを売り、情報を発信し、顧客を得られる場所として解放されたのだ

・もしそうであるならば、もはや誰もがじっとしていられず、さっさと今の、くだらない人間関係に縛られて苦しみ何のためにやっているかわからない雑務に追われ続ける今の職場を離れ、自由にメディアを使い、自由に発信を行い、自由に顧客を作るようになり、この世のさまざまな企業はどんどん消滅していくはずだ

・しかし実際はそれほど過激な出来事はまだ起こっていない

・いかに自由にメディアを使うことができても、企業の社員として安定したサラリーを得られることを簡単に捨てられるわけではないのだろう

・あるいは決して今の環境に大きく不満があるわけじゃないのだろう

・もちろんぼくもそうである

・その結果、みんなマーケティングとコミュニケーションの話について「熱心に語り合っている」が、語り合うだけで何もしない

・何もしないうちに、見えない部分で何かが大きく進行しているように感じる

・ぼくがこのようなブログを書いているあいだにも、だ

・一体情報革命によってもたらされる進化とは、誰のための進化なのだろう



ひょっとしたらと思うこと)


・解放されたメディア、解放された世界は、ひょっとしたら人間のためのものではないのかもしれない

・情報革命によって大きく変わったことの一つは「すべてが目に見えるようになった」ことだ

・ぼくが休日に家事をサボってこのようなブログを書いていることも、どこかの国の中心人物が重大な意思決定を下したことも、インターネットを通して見ることができる

・果たして中年サラリーマンのくだらない息抜きと世界を揺るがしかねない重大事実を両方とも同じぐらい重視する人間なんて存在するだろうか

・しかしインターネット、あるいは世界中に張り巡らされた情報ネットワークにとってはどちらも平等な「データ」としての意義があるのだ

・情報ネットワークはこの2つのデータをどちらも誰にでも「見える」ようにする

・それだけでなく、中年サラリーマンのどうでもいいブログ記事と世界の重要人物による声明のどちらが注目され、どちらが重視され、どちらが人々の生活に影響を与えるかも見えるようにする

・情報ネットワークは、その事実を明らかにするだけだが、人間はその明らかにされたものを判断材料として、中年サラリーマンの駄文と重要人物の声明のどちらを重視するべきなのかということを決めるのだ

・情報ネットワーク自体に意志はない

・そこにあるのはぼくらの選択だけ

・ぼくらは「他の人間がどれだけそのデータを重視しているか」「話題にしているか」「ヒットしているか」ということだけを手がかりにしてそのデータを閲覧し、考えたり、行動したり、拡散したりする

・その事実をまた情報ネットワークが吸い上げて「見える」ようにして、それをもとにぼくらはまた新たなデータの取捨選択を行う

・ぼくたち人間、あるいは人間社会というものを通してデータが出たり入ったりしていくうちに、そのデータ構造は変化し続けていく

・データは人間だけでなくこの世のさまざまな事象の中を通過し、ネットワークへと吸い上げられ、新たなデータが提供されることで、世界の形は変わり続けていく

・繰り返すがそこに何かの意志があるわけではない

・ただ情報ネットワークを通して、世界のあらゆることが見えるようになり、それに対する優先順位がつけられ、淘汰が行われ続ける、それもものすごいスピードで

・人間という存在は、そのような世界におけるひとつの要素にすぎない



もしそうであるならば)


・人間にできることは「こちらのほうが望ましい」と思うほうの情報を、自分で考えて選択していくことぐらいじゃないだろうか

・しかし「自分で考えて」というけれど、考えれば考えるほど「何が自分にとって大事なのか」が判断の基準になるだろう

・だがその判断の基準を「金儲け」「貯金」などのわかりやすい指標に設定しないほうがよいように思う

・いずれも簡単に「データ」にすることができるからだ

・データに変換された瞬間に、それは情報ネットワークへと吸い上げられ、処理され、その最適解が全員に提示されてしまう

・つまり「自分で考える」必要がなくなってしまうのだ

・では「自分で考える」べき、自分にとって「望ましい」もの、とは一体何か

・その答えは、その人の数だけ違う

・むしろ「望ましいもの」がみんな共通しているならば、人間の存在など、情報ネットワークにとっては何のうまみもないのだ

・ヒットした情報が一番良い情報であり、話題になった情報が一番重要な情報であり、炎上した情報が一番悪い情報なのだと何も考えずに受け入れる人というのは、情報ネットワークにとっては、固有の動きを示す一人の人間ではなく「何かの塊のひとつ」でしかない

・ではどうすれば自分にとって望ましいことを自分で考えて取捨選択することができるようになるのか、正確な答えはぼくにはない

・ただ「孤独」という言葉が役に立ちそうだという予感がある、その程度だ