ぼくは、ぼくのために働いているだけ。



特に答えはない。


こーさん(id:koh0605)が、休日返上で働く上司を見て、自分を犠牲にしてまで仕事で手に入れたいものなんてあるのだろうかとモヤモヤした、というエントリを読んだ。
自分を犠牲にして仕事で手に入れたいものなんてない。 - いずれも。

それで、ぼくもモヤモヤしたので、ちょっと考えていたけれど、良い答えは何も思いついていない。

ぼくは社会人になってから、このブログを書き始めるまでのあいだ、ずっと、人生において仕事はほとんどすべて、あとはおまけ、と思っていた。

子供ができてからも、子供がいなければもっと遅くまで働けるのに、土日出勤もできるのに、と思うことも時々ある。

いまでもぼくは仕事なり働くこと自体にはすごくこだわっていて、出世できなくても、周りから評価されなくても、自分自身が納得できるように働きたいと思っている。

そういう点ではこの上司の働きぶりがうらやましい。

ただ、自己犠牲、という考え方は、あとあとしんどくなるんじゃないかなあとも思う。

土日返上で働くのも、それでボロボロになるのも、自分でそう決めてやるなら、それでいい。

だけど、勝手に「自分は会社のために犠牲となっている」と思って働くのはマズい気がする。

それだと、たとえば会社から高く評価されなかった場合に「自分はこんなに犠牲となって会社に貢献してきたのに!」という感情が生まれてしまう。

ぼくはいままで自分のために働いているつもりだったけれど、それでもいつのまにか「俺はこんなに苦労しているのになぜ評価されないんだ!」という気持ちを抱くようになっていて、そのこと自体にすごくショックを受けた。

ついつい便利だから、犠牲、とか、貢献、とか言っちゃうのだけれど、まあそれを社内の方便として使うのは好きにしたらいいけれど、本当にそう思うのはマズいように思う。

そういう感情というのは直接言葉にしなくても、態度や行動に出てくる。

「俺はみんなの代わりに犠牲になってて大変なんだ!」「お前たちが今日のうのうと暮らせるのも俺が私生活を投げ打って会社に貢献してるからなんだ!」というのがビンビンに出てくる。

ぼくは、自分がそんな気持ちになったことがあるし、いまでもふと思ってしまうことがある。

しかし、どうなんだろう。

たしかに、特に会社のような組織ではそういう骨の髄までとにかく仕事、仕事が人生の全て、という人たちの活躍によって他の人たちが引っ張られて組織が成長していく、という状況はよくある。

だけどそういう仕組みの話じゃないんだろう。

単純に気持ちの問題として、「俺はお前たちの代わりに犠牲を払ってる」と勝手に犠牲を払われている、自己犠牲の押し売りみたいな感じがめんどくさいし、仮に自己犠牲を払わない人間はダメ、みたいな空気になってしまったら最悪だ。

はじめから何か結論をまとめる気はないのだけれど、そんな、もっと生の、感情の話から目をそらしたくないなあと、ちょっと思った。

ぼくは仕事が好きで、働くことが好きだけれど、それはそこで起こる辛いことや苦しいことも含めて、好きだと思う。

でもそれはあくまでぼくの感情であって、そうじゃない人に押しつけるのは別の話。

好きにはなれないなあ、自己犠牲、というのは。

ぼくは、ぼくが大好きなので、そんな大切なぼくの人生を何かの犠牲にはしたくない。



ぼくは、ぼくという生き方を、好きでやってるだけなんです、はい。

いったい人間は何年生きると、思っているのか。


ふと思い出した。



10代の頃、何か楽しいことがあるたびに、この時間がずっと続いてほしいけれどそれは絶対にありえない、人生において楽しいことばかりは続かない、とよく思っていた。

その予感はやっぱり正しくて、あの頃の、全身がしびれるようにドキドキするような体験というのは二度とやってこなかったし、それは別に10代に限らず、いつだってそうなのだ。

楽しい時間も、苦しい時間も、同じものは二度とやってこないし、それは他の人には体験できないものだ。時間は切り分けたり、交換したりはできない。

しかし、これと正反対の時間感覚について語られるときがあって、それはよく生命保険や住宅ローンのときに語られるような世界観で、お子さんが成人したときにはこうなります、とか、何歳のときにこうなります、そのときに得られる利得はこれだけです、といった経済学の発想である。

経済学では、一年は誰にとっても同じ一年として数えられる。
多感な10代における一年も、死にかけた老人における一年も、同じ一年。

いまの世の中というのは経済学という合意にもとづいて動いている部分が大半なわけで、つまりは誰もが貨幣と同じように時間についても同じ価値を感じている、という前提でぼくらは生活している。

そしていつも自分たちが何年先にどうなっているかを考え、これに備えるような行動をとっている。

だけど、これはずいぶんえらそうな考え方だ。

いったいぼくらは、これから何年生きると思っているのだろう。

いまの人生がいつまで続くと思っているのだろう。

この世の中がいつまであると思っているのだろう。

もちろん、「仮に世の中がずっと続くとして」「仮に自分は80才まで生きるとして」という仮定を前提にしないと考えというのは前に進まないから、その仮定自体を傲慢だとは思わない。

しかし、これを当然だと受け入れて生きていくにはあまりにも人生というのは不安定だし、人間の感受性というのは変化しすぎる。

ぼくは別に1日1日を大切に生きましょう、みたいな教条的なことを言いたいわけではない。

ただ、時間という、絶対的に普遍なものだと思われている概念ですら、人間同士の思いこみによって成立している部分もあるのじゃないか、と思うし、そういう感覚というのを大切にしたいなと思う。

ある人にとっては今の時間は未来への投資かもしれないし、ある人にとってはただただ暇つぶしの対象かもしれないし、ある人にとっては何か不安なものが差し迫るのを待つおそろしい瞬間の連続なのかもしれない。

これをまとめて、みなさんだいたい80才まで生きるとしましてとか、3年やれば身につきますよとか、あまりそういう乱暴な話ばかりを信用しないようにしたい。

ぼくはぼく、あなたはあなた。

お互いに全く違う時間の中を生き、偶然にもここで出会った、そのことのほうがずっと大事なのだ。

シンプルイズ、ベスト。


生きていると悩みのオンパレードだ。



今日のスケジュールはこれで、こんな問題に取り組まなきゃいけない、明日はこんな会議が控えている、そもそも我が社の課題はこれで、それを解決しようと思うとまずは新規顧客をこれだけ獲得しなきゃいけない、そのためにはこれとこれとこれを動かさなきゃいけない、そうなるとまずはこの人とこの人に声をかけなきゃいけない、いやちょっと待て、そればかりやってちゃ困る、既存の得意先をおろそかにしていたら事業が足元から崩壊するぞ、さあ今すぐ挨拶に行こう、いやちょっと待て、その前にこの間助けてくれた人から頼まれていることがあった、あれを先に片付けてしまわなきゃいけない、だけどそろそろ帰宅しなきゃ子供を風呂に入れられないぞ、一度風呂に入れて寝かしつけてから作業をしよう、しまったそのまま寝てしまった、さあどうする、とにかく残された時間でやるしかないぞ、だがこんな生活繰り返していたらいつになれば自分のやりたいことができるのか、そもそもやりたいことってなんだったっけ、困った、自分が自分でわからない、もう不惑というのになんとひどい状況だ・・・

しかしまあ、ぼくはそういう悩みだらけの毎日を送り、このところ色んな失敗を繰り返しているうちに、急に気づいた。

悩んだってしかたないのだ。

もちろん、ぼくがあれこれ悩んでいることは、どれも無視できないことだし、取り組んでいかなきゃいけないことだ。

だけど、それに対してぼくができることは限られていて、そのできることをやる、それしかできることはない。

中途半端に「自分はもっと色んなことができる」と思ってしまうから、悩んでしまうのだ。

そりゃまあ、いくつになっても、あきらめちゃいけないことはあるし、人前で「できない」と言うのはとても難しいことである。

しかし思いきって、最近は言ってしまう。

「できません。」

だけど、実はこういう人が世の中にはいて、そういう人ならこれに対処することができるかもしれないから連絡をとってにみるのもいいかもしれない、あるいは、こんな方法ならば解決できるかもしれないけど、それにはこのあたりから手をつける必要がある、どうしてもやりたいなら、この辺からはじめていくことなら「できる」。

そうやって、「できない」ことの中のわずかに「できる」ことを見つけて、それを取り組んでいくことにしている。

悩みというのは、達成できない欲望だ。

生きていればいくらでも欲望は増えていく。

それに対してぼくらができることは2つしかない。

その欲望を遠回りでもいいから、少しずつ満たしていくこと。

あるいはそれをすっかりあきらめてしまうこと。

最近はそんな風にシンプルに考えている。

どうせ生きてるあいだにすべての欲望が満たされることなんてないのだ。

ならば、満たされない欲望が数多くあるという事実に対してあまり難しく悩んでも、しかたがない。