報酬を、与える。


以前も書いたことだけれど、何かひどく大変なことをやりとげたからそれに見合う対価が得られるとか、これだけやったんだから何をしてもよいとか、そういう考え方は、他人とのやりとりの中では役立つこともあるが、自分自身に対しては役に立たないどころか、なんでこんなに頑張ってるのにオレは報われないんだという気持ちを育てるだけなので、まあ害にしかならない。

ぼくの理想としてはその日に取り組んだことはその日によくやったと自分で自分を労ってチャラにしてしまうことであり、もっといえば何か大変なことや面倒なことに取り組んだ瞬間にその人はこれまでの自分を越える偉大な挑戦をやりとげたわけで、その一瞬一瞬を自分で賞賛してあげればいいのである。

しかし人間というのはどこまでも貪欲で、もっとほめてほしい、もっと癒してほしいと際限なく求め、それが与えられなかったときに「自分は裏切られた」「誰も評価してくれない」と憤り、勝手にやる気を失うわけだ。

そういうことが続いておかしな具合になった体験をふまえると、まあできるだけ自分の行動には自分で意志を持ち、うまくいってもいかなくても、いやあよくやったなと自分をほめてやるのが一番楽で、それじゃあ足りなさそうだと思えることは、はじめからやらない、しかしどうしてもやらなければいけないときは、はっきりと決めておきたい、これは誰かにやらされているのではなく、自分でやっていることだと。

そうでないことは、やらない。

自分の人生を人のせいにして生きるのはぼくには耐えられない。

男らしくない、男。



女性向けの商品に関わる仕事をしていたことがあった。



とても楽しい仕事だったのだけど、異動があって、担当を外れた。

それでぼくの代わりに別の男性2人が担当になったら、得意先からクレームがあったらしい。

「なんで急に男の人ばっかりが担当になったんですか!」

どうもぼくは男として数えられていなかったようだ。

昔からどうも言動がなよなよしてるらしく、新入社員時代にも女性の先輩から「女っぽくて気持ちわるい」とかカゲで言われてた。

そりゃあ、男らしい男には憧れるが、無理なものは無理なので、しかたない。

若い頃はそれでも男らしくなりたいと体を鍛えたり、わざと低い声を出してみたり、なるべく笑わないようにしてみたりしたが、そんな表面的な話ではないのだろう。

最近は、むしろ男らしくないことが役に立つ場面もあるし、まあ「男らしさ」なんてなくても、それなりに楽しく暮らしている。


男らしさだけじゃなく、「らしさ」にとらわれて、本当の自分「らしさ」を発揮できない場面というのは色々とある。

あなたがリーダーですよ、と言われると勝手に自分の中のリーダー「らしさ」を気にしすぎて空回りして失敗したり、家族に対して変に父親「らしさ」を出そうとして無理したせいでイライラしたり、とかく「らしさ」なんてものを意識してうまくいった経験はほとんどない。

自分が思う「らしさ」が、実はよそから借りてきた単なる空想にすぎないからである。

リーダーとは強い統率力と素早い判断力を持ちみんなから尊敬されるものである、なんてのは状況によってはまったく通用しない。

父親だって、夫だって、なんだってそうだ。

その人なりの答えが本当はあって、それを見つけ出すためにみんな四苦八苦してるわけである。


最近はようやくそういう当たり前のことに気づきはじめて、別に男らしくなくてもいいや、貫禄なんかなくてもいいや、できることを自由にやろう、と思う。


しかし、いまだに、いかにも思慮深そうな顔をして「そういうふるまいは◯◯らしくない」と忠告してくる人がいる。

まあはっきり言って、こういう話に耳を傾ける必要はない。


人生は短い。


他人が勝手に決めた「らしさ」なんかにとらわれて生きるような時間なんて、もう残されてないのだから。

ミナトホテルの裏庭には、何があったのか。




寺地はるなさんの『ミナトホテルの裏庭には』という小説を読んだ。



素敵な人たちがたくさん出てくるお話で、中でも、主人公の祖父が素敵である。

「古武士みたい」で「秩序と静寂を好む」祖父は、主人公にとある用事を頼むのだが、それからちょっとして「これを持っていきなさい」と意味ありげに麻袋を差し出す。

まるで代々伝わる宝刀を授けるかのような言い草なんだけれど、その中には文庫本とチョコと缶詰が入っている。

持っていきなさい。祖父はやけに重々しく頷いてみせる。祖父はよく、こういうもっともらしいことを言いながら、不要になったものを押し付けてくる

この真面目なんだか適当なんだかよくわからない祖父の用事から始まるお話は、しかし色々な人々の想いをつめて、ゆっくりと進んでいくのである。


ぼくは、お話の舞台となる「ミナトホテル」に泊まりに来る客と同じように、とても疲れていて、ひどく休息を求めていた。

休息といっても、先月からはそれなりに睡眠時間も確保できているし、身体もよく動かしている。

休息が必要なのは身体ではなくて、ものごとに鈍感になろうと努めたせいで自分の中でカチカチに固まっている部分だった。

で、そういうものに関しては、いくら早く帰宅してたくさん寝ても、義母にフィットネススタジオに無理やり連れて行かれて汗を流しても、たいして効果はなくて、それは誰かが何かを通して感じたり考えたりしたことを、後からついていって体験するのが一番近道なのだろう(そういう意味ではフィットネススタジオとあまり変わらない気もするが)。


子供が生まれるまでは、いつも本を読んでいた。

出張中の新幹線が一番厄介で、途中で本を読み終えてしまうと後の時間が困るので、駅の書店で新しい本を買っておかないと不安になるぐらい、とにかく読んでいたのだけれど、ぼくはそういうリソースを他のことにあてがうようになり、そのうち本がカバンに入っていなくても、まあいいや、と思うようになっていた。

読む本の内容も、最近は経営なりマーケティングなりの本ばかりで、それはそれで自分が読みたくて読んでいたのだし、それなりに面白いことを色々発見したのだけれど、しかしそういうものを面白がろうとするときは、今までとは違う世界のとらえ方が必要だったし、そのとらえ方というのは、これまでの自分が拒絶してきた部分も大きかった。

企業は競合と戦い勝ち残る必要がある、とか、環境の変化に先に適応できた者だけが生き残れる、とか、お金を儲けるためには粘り強さが必要だとか、どれも真実なのだろうけれど、こういう考えに向き合うには、「はいはい、そんなこともちろん知ってましたよ、私だって厳しい世界を生き抜いてきた人間ですから」と平気な顔をして、誰も見ていないところで自分の中の感受性を叩きのめし、鈍感になるように努めなければいけなかった。

しかしまあそんなものが、長続きするわけがない。

とにかくすっかり疲れていたのだ。


『ミナトホテルの裏庭には』を読み終えて、ぼくは自分がそういう状態になっていることがわかり、また、本当に自分に見えている世界をありのままに見つめ直す練習をさせてもらった。

強くなくていい。

正しくなくてもいい。

自分の弱さを大切にして、弱いからこそ感じられるものを手がかりにして、もっとわがままにやっていけばいい。


それが、ぼくが主人公の祖父から「持っていきなさい」と渡されたメッセージだ。



まあそれは、読む人の数だけ違うものなのだろうけれども。


ミナトホテルの裏庭には

ミナトホテルの裏庭には