ミナトホテルの裏庭には、何があったのか。




寺地はるなさんの『ミナトホテルの裏庭には』という小説を読んだ。



素敵な人たちがたくさん出てくるお話で、中でも、主人公の祖父が素敵である。

「古武士みたい」で「秩序と静寂を好む」祖父は、主人公にとある用事を頼むのだが、それからちょっとして「これを持っていきなさい」と意味ありげに麻袋を差し出す。

まるで代々伝わる宝刀を授けるかのような言い草なんだけれど、その中には文庫本とチョコと缶詰が入っている。

持っていきなさい。祖父はやけに重々しく頷いてみせる。祖父はよく、こういうもっともらしいことを言いながら、不要になったものを押し付けてくる

この真面目なんだか適当なんだかよくわからない祖父の用事から始まるお話は、しかし色々な人々の想いをつめて、ゆっくりと進んでいくのである。


ぼくは、お話の舞台となる「ミナトホテル」に泊まりに来る客と同じように、とても疲れていて、ひどく休息を求めていた。

休息といっても、先月からはそれなりに睡眠時間も確保できているし、身体もよく動かしている。

休息が必要なのは身体ではなくて、ものごとに鈍感になろうと努めたせいで自分の中でカチカチに固まっている部分だった。

で、そういうものに関しては、いくら早く帰宅してたくさん寝ても、義母にフィットネススタジオに無理やり連れて行かれて汗を流しても、たいして効果はなくて、それは誰かが何かを通して感じたり考えたりしたことを、後からついていって体験するのが一番近道なのだろう(そういう意味ではフィットネススタジオとあまり変わらない気もするが)。


子供が生まれるまでは、いつも本を読んでいた。

出張中の新幹線が一番厄介で、途中で本を読み終えてしまうと後の時間が困るので、駅の書店で新しい本を買っておかないと不安になるぐらい、とにかく読んでいたのだけれど、ぼくはそういうリソースを他のことにあてがうようになり、そのうち本がカバンに入っていなくても、まあいいや、と思うようになっていた。

読む本の内容も、最近は経営なりマーケティングなりの本ばかりで、それはそれで自分が読みたくて読んでいたのだし、それなりに面白いことを色々発見したのだけれど、しかしそういうものを面白がろうとするときは、今までとは違う世界のとらえ方が必要だったし、そのとらえ方というのは、これまでの自分が拒絶してきた部分も大きかった。

企業は競合と戦い勝ち残る必要がある、とか、環境の変化に先に適応できた者だけが生き残れる、とか、お金を儲けるためには粘り強さが必要だとか、どれも真実なのだろうけれど、こういう考えに向き合うには、「はいはい、そんなこともちろん知ってましたよ、私だって厳しい世界を生き抜いてきた人間ですから」と平気な顔をして、誰も見ていないところで自分の中の感受性を叩きのめし、鈍感になるように努めなければいけなかった。

しかしまあそんなものが、長続きするわけがない。

とにかくすっかり疲れていたのだ。


『ミナトホテルの裏庭には』を読み終えて、ぼくは自分がそういう状態になっていることがわかり、また、本当に自分に見えている世界をありのままに見つめ直す練習をさせてもらった。

強くなくていい。

正しくなくてもいい。

自分の弱さを大切にして、弱いからこそ感じられるものを手がかりにして、もっとわがままにやっていけばいい。


それが、ぼくが主人公の祖父から「持っていきなさい」と渡されたメッセージだ。



まあそれは、読む人の数だけ違うものなのだろうけれども。


ミナトホテルの裏庭には

ミナトホテルの裏庭には

出世に、失敗しました。




一番大きな原因は、失敗を恐れたことだ。



エラくなるためには失敗はできない、評価されるためにはミスはできない、生計を立てるためには給料を下げてはいけない、という心配ごとばかりが頭の中にあって、人の目ばかりを気にして行動していた一年だった。

そのせいで、自分で仕事を抱え込んでしまって、結果的に失敗をやらかして、会社からの評価も大きく下がってしまった。

また、失敗を恐れるあまり、ワクワクできる挑戦をひとつも行わなかったので、面白い成果を上げることもできなかった。

そのくせ睡眠時間を削ってギリギリの状態で働いていたので、疲れ切ってしまった。


色々と自分で自分を勝手に追い詰めていた。

もう会社でエラくなるには年齢的にはギリギリだったし、実際に体力も集中力も減っていくし、子供の成長につれて家計はどんどん苦しくなるし、残された機会はほとんどなかった。

そう考えれば考えるほど、もう失敗はできない、うまくやらないとチャンスは訪れない、と思っていた。

面白さよりも、正しさを求めた。

刺激よりも、安定を求めた。

自己評価よりも、他者の評判を求めた。


不思議なことに、そういう風に世界をとらえるようになると、びっくりするくらい自由な発想ができなくなる。

当たり前だけれど、自由な発想というものは、まあ失敗しても仕方ないや、と心のどこかでは思っていないと出てこないものだ。

そして、そういう状態のときのほうが、意外と失敗した場合のこともちゃんと考えていたりするのだ。


まあ、そんなわけで、簡単に言うと、自分を見失っていた一年間だった。

妻に、今年は給料が下がるという話をしたところ、努力した結果なら仕方ない、むしろどれだけ働いたって結果がどうなるのかわからないのであれば、早く仕事を切り上げて帰ってきて家事にもっと取り組んだほうがましじゃないの、と言われた。

あなたは仕事を好きでやっているのだと思っていたけれど最近はそうでもないのかしらとも言われた。


それで、ぼくはようやく目が覚めた。

ぼくは勝手に何か重たいものを背負っているつもりになっていたけれど、それはただの思い込みであり、他の人のぶんや家族のぶんも頑張らねばと気負っていたけれど、それはひどい思い上がりだったのだ。


こうなると、もう開き直るしかない。

ここまでの人生、進みたい方向を勝手に自分で決めて、勝手に進んできたのだ。

残りの人生も、好きなように生きようと思う。


好きなように生きる、とはどういう意味か。


甘んじるなさん(id:amnjrn)が、素敵な記事を書いていて、ぼくはこれは自分のための文章だ、と思った。

私はいい加減認めないといけない。これから出逢うかもしれない素敵そうな事物より,目の前のお茶が今私に見せてくれている世界の方がもう既に素敵である,と。

手にした石を据えることで,世界の構築に携わること。 - こ の 日 常 に 奇 跡 起 こ せ !


好きなように生きる、というのは、自分だけの特別なレンズをとおして世界を見つめる、ということだ。

他人にとってはつまらない光景やどうでもいい場面であっても、その人が大切にしているものを通してのぞけば、まったく違う世界が見えてくる。

それが甘んじるなさんにとっては「お茶」である。

彼女はこの世界を「お茶を入れるのにふさわしい場所」としてとらえなおすことができる。

そうすることで、平凡な河原も、退屈な路地も、そして自身の生活も、すべてが彼女の好きな「お茶」を成立させるためのフィールドとなるのである。


ぼくも、自分の仕事が好きな理由は、同じだったはずだ。

日常のすべての体験が、新しい発想の引き出しを作ってくれる、滋味深い食べ物になる。

ボロボロになるまで働くことも、子育てと仕事の合間でヒーヒー言うことも、そして出世に失敗することも、すべてがアイデアの栄養となり、豊かな土壌を育んでくれる。

無駄な時間なんて、ひとつもない。

そこには出世がどうとか、他人の顔色がどうとか、そういうつまらない景色じゃなく、未知の体験にあふれたワクワクした光景が広がっているのに、それを見るレンズをすっかり忘れてしまっていた。

もちろん、その体験のすべてを仕事で発揮できるとは限らない。

そんなときは、こうやってブログを書けばいい。

書くことをとおして、この世界を見つめ、そこで起こるできごとに自分だけの意味を与え、じっくりと味わえばいい。



さて、また歩き始めるとするか。

ここにはない世界は、どこにあるか。



毎日の暮らしの中で、ふと「ここではないどこか」へと思いをはせることがある。



日々、同じような場所で、同じような仕事をして、同じような人たちと話をし、同じようなものを食べて、同じような時間に眠る。

それをずっと繰り返しているうちに、こんな暮らしとはちがう「ここではないどこか」に行くことができたら、と考える。

もちろん、そのどこかにたどりつけたとしても、またその場所では色々と面倒なことが起こったり、退屈なこともあったりするのだろうけれど。

しかし最近は、その「ここではないどこか」が、どこにもないような気がしてならない。

それはもちろん歳を取ったからというのもあるかもしれないが、それ以上に、世界がどんどん小さくなってきている。

簡単に世界中に行けるようになっただけでなく、実際に行かなくても、誰がどこでどんなことをしているのかを、簡単に知ることができるようになった。

しかし、そうやって知ることができる内容というのはどれも何かが足りなくて、頭の中の一部だけは満たされるけれど、かえってそれ以外の部分はカラカラに乾ききっているような感覚になる。

文字や写真や動画という断片的な情報ばかりをいくら吸い込んでも満たされない、酸欠みたいな状態だ。


この酸欠状態を作り出しているのは、他でもないぼく自身だ。

手軽に手に入れられる情報ばかりを摂取して、それだけで満足しようとするから、本当に大切なことを理解することなく、表層的なものにとどまってしまう。

だからひどく世界が小さく、空気が薄く感じるのだ。


賢明な人は、そんな中でも本当に大切なものを見抜き、考えをどんどん進化させていくのだろう。

しかしそれができない場合はどうすればいいのか?

これに対する答えはとても簡単で、そして実行はひどく難しい。


まあだからこそ面白いのだけれども。